「誰がこの靴で歩けるって言ったっけ?」
「ねえ、誰がこのヒールで磊々峡まで歩けるって言ったっけ?」
「いや、君が『春の散歩にぴったり』って言い張ったじゃん!」
「あーもう、最悪。足の指が悲鳴を上げてるし、もう一歩も動けない」
「まあいいじゃん、ホテル瑞鳳に着けば全部解決するし。温泉で足を癒やせばいいよ」
「そういう楽観的なやつが一番信用できないんだよ」
私たちは互いに呆れながら、けれど止まらない笑いに肩を揺らしていた。四月の仙台はまだ空気がひんやりとしていて、頬をなでる風が心地よい。けれど、おしゃれを優先した代償は大きく、送迎バスを降りたときには、心地よい疲労感と、ほんの少しの絶望感に包まれていた。視界に飛び込んできたのは、春の陽光を浴びて凛と佇むリゾートの風景。その贅沢な佇まいに、私たちの不満は一瞬で霧散した。
贅沢な余白が、心をほどいていく
ロビーに足を踏み入れた瞬間、意識に飛び込んできたのは圧倒的な「余白」だった。高い天井から降り注ぐ柔らかな光と、冷たいおしぼりに添えられたシトラスの清涼な香りが、春の風に乾かされていた肌にじわりと染み込んでいく。厚みのあるカーペットが足音を吸い込み、私たちのくだらない言い争いだけが、心地よいリバーブを伴って空間に溶けていく。この場所全体が、巨大な残響エフェクトをかけたスタジオのようだった。
夕食のビュッフェレストランでは、視覚と嗅覚が同時に書き換えられる。目の前で焼き上げられる仙台牛タンの、あの香ばしい匂い。外はカリッと、中は驚くほどジューシーな肉質が、口の中で弾ける。私たちは、どのお皿から攻めるかで真剣に議論し、最後には誰が一番デザートを盛り付けすぎたかで競い合った。チョコレートファウンテンに突き刺したフルーツを、誰が一番不格好に口に運ぶかという、大人のすることではない賭けに興じる。そんな不釣り合いな時間が、この豪華な空間を、私たちの「居場所」に変えていった。
温泉への道すがら、風に揺れる竹林のさらさらという音に耳を澄ませる。露天風呂に浸かると、名物の立ち湯が心地よい圧迫感とともに身体を包み込んだ。お湯の熱が皮膚の境界線を曖昧にし、外気の冷たさが思考をシンプルにしてくれる。洗い場で誰かがシャンプーを間違えて泡だらけになったとき、私たちはまた、子供のように笑い転げた。
案内された和室は、い草の乾いた香りが鼻をくすぐる広々とした空間だった。靴を脱いで踏みしめた畳の感触が心地よく、部屋の隅から隅まで歩いてもまだ目的地に辿り着かないような錯覚に陥る。大きな荷物を放り出し、そのまま畳の上に大の字に寝転んだ。天井を眺めていると、この部屋の物理的な広さが、私たちの心の余裕にそのまま変換されていくのがわかった。何もない空間があるということは、そこに何をでも詰め込めるということだ。私たちは、明日からの予定をすべて白紙に戻し、ただこの静寂を贅沢に消費することに決めた。
深夜二時の、少しだけ低いトーン
「ぶっちゃけ、新しい環境に慣れるの、無理じゃない?」
「あー、わかる。私も明日から別の人間にならなきゃいけない気がして、ちょっと怖い」
「でもさ、この部屋の広さがあれば、不安くらい余裕で飲み込めると思わない?」
「言い方、ひどくない?」
浴衣の柔らかな袖を気にしながら、私たちは小さな声を出し合った。昼間の騒がしさが嘘のように、夜のホテル瑞鳳は静まり返っている。ただ、遠くでかすかに聞こえる水のせせらぎだけが、この場所が生きていることを教えてくれていた。薄暗い照明の下、隣に座る友人の横顔を見つめる。不安はあるけれど、それを口に出して笑い合える相手が隣にいる。それだけで、明日という日が、少しだけ違う音色で聞こえてきそうな気がした。私たちは、心地よい眠気に身を任せながら、ゆっくりと意識を溶かしていった。
窓の外で、夜風に揺れる桜の花びらが、ひとつだけガラスに張り付いていた。
- 磊々峡まではホテルから散歩道で十五分ほど。歩きやすい靴で、春の空気を吸い込んでほしい。
- ビュッフェのデザートコーナーは圧巻。お腹に十分なスペースを空けてから挑むのが正解。