石畳を叩くスーツケースの乾いた音が、静かな有馬の街に不協和音のように響く。十一月の風は鋭く、頬を刺すたびに身震いした。「だからシャトルバスに乗ればよかったって言ったじゃん」という呆れ声に、私はわざと耳を塞ぐ。けれど、辿り着いた中の坊 瑞苑の暖簾をくぐり、ロビーに足を踏み入れた瞬間、冷え切った指先に甘く重厚なお香の香りがまとわりついた。張り詰めていた空気がふっと緩み、誰かが誰かを責める声さえ、心地よいBGMに溶けていく。
炭火がパチパチと小気味よく跳ね、芳ばしい煙が鼻腔をくすぐる。熱い鉄板の上で、神戸牛の脂が宝石のように踊っていた。一切れ口に運べば、淡い甘みが体温でとろりと溶け、濃厚な旨みが舌の上で爆発する。「喋ってないで食えよ」とぶっきらぼうに突き放され、私たちは同時に吹き出し、また競うように肉に手を伸ばした。胃袋が満たされるたび、心の尖っていた角が、ゆっくりと丸くなっていくのが分かった。
錆びた金色の湯。肌に触れた瞬間、ピリリとした鉱物の質感が心地よく突き刺さる。金泉の濃密な熱が、身体の芯までじっくりと浸透していく。「見てよ、茹で上がったカニみたいになってる」と笑われ、「お前こそ真っ赤じゃん」とやり返す。互いの紅潮した顔を指さして笑い合う時間は、日常という名の重い鎧を一枚ずつ脱ぎ捨て、ただの無防備な生き物に戻っていく儀式のようだった。
静寂には、それぞれ違う手触りがある。大人の隠れ家のような空間に流れる、凪のような静けさ。襖がスッと閉まる乾いた音だけが、時間の経過を教えてくれる。三時間くらい、誰とも喋らずに本を読んでいようと密かに決めたけれど、結局、誰かがふと漏らした小さすぎる独り言に、全員が同時に吹き出した。この心地よい沈黙を共有できる関係こそが、何よりの贅沢なのだと気づかされる。
空は鈍い灰色に塗り潰されていたが、視界に飛び込む紅葉だけが、暴力的なまでに鮮やかな赤を放っていた。露天風呂に身を沈めると、金色の湯が濡れた和紙に墨が滲むように、ゆっくりと皮膚に染み込んでいく。身体と世界の境界線が曖昧になり、自分がどこまでで、どこからがお湯なのか分からなくなる。そんな心地よい喪失感に身を任せ、ただ呼吸を繰り返していた。
裸足で踏みしめたタイルの、ひんやりとした硬い温度。そこから畳の柔らかく、どこか懐かしい感触へ。和モダンデラックスの広々とした空間に、私たちの笑い声が小さく、けれど鮮明に反響している。ベッドまで歩くわずか数歩の距離が、なぜか果てしなく遠く、贅沢な旅路のように感じられた。何もない「空白」があることが、どれほど心を軽くしてくれるか。
浴衣の裾を捌ききれず、しどけなく歩こうとした誰かが、盛大に躓きそうになった。そのまま五分くらい、どこに行こうとしていたかも忘れて、廊下で折り重なるように笑い転げていた。完璧にエレガントに振る舞おうとして、見事に失敗する。そんな不格好で人間臭い瞬間こそが、後になって一番鮮やかに思い出す旅のハイライトになる。
肌に微かに残る、懐かしい硫黄の匂い。身体からすべての力が抜け、指先までぽかぽかと心地よい熱が宿っている。帰り道、遠くに見える街のイルミネーションが、いつもより少しだけ優しく、滲んで見えた。私たちはまた、すぐにくだらないことで言い合いを始めるだろう。けれど、その声はきっと、心地よい周波数で響き合い、明日への活力になるはずだ。
湯上がりの火照った肌に、冬の夜風が心地よく触れた。
- 金泉と銀泉の使い分けを、ぜひ友達と賭けて試してみて。正解は、どっちも最高だってこと。
- チェックアウト後の有馬の路地裏散歩。迷子になるまで歩くのが、一番の贅沢だよ。