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肩と肩のあいだに、春が落ちてきた

肩と肩のあいだに、春が落ちてきた

裸足で踏み出した畳の、少しだけざらついた乾燥した感触から、この旅の記憶は始まっている。チェックインを済ませて部屋に入ったとき、まず意識したのは空気の密度だった。有馬ロイヤルホテルに漂う、年月を重ねた檜や杉が放つ深く静かな香りと、開け放たれた窓から運ばれてきた春の湿り気。肩に掛けた浴衣の、心地よい重みが、ここから先は誰にも邪魔されない二人だけの時間なのだと静かに教えてくれる。私たちは、あえて多くを語らなかった。ただ、露天風呂付客室に備えられた信楽焼の陶器風呂に満たされた、あの濃密な黄金色の湯に、ゆっくりと体を沈めた。手のひらで触れた陶器の縁は、わずかにざらついていて、大地の熱をじっくりと蓄えている。金泉特有の、地球の奥底から湧き上がってきたような力強い香りが鼻をくすぐり、肌にまとわりつくお湯の感触が、心の境界線をゆっくりと溶かしていく気がした。「すごい色だね」と誰かが小さく呟いた。その声さえも、立ち昇る白い湯気に溶けて、輪郭を失っていく。ふと顔を上げると、半露天の隙間から、淡いピンク色の花びらがひとつ、ゆっくりと舞い降りてきた。風に煽られて宙を舞い、水面に触れるまでの、あのほんの数秒のラグ。その空白の時間に、私たちは似ているのかもしれない。答えを急がず、ただそこに在ることの心地よさを、お互いの呼吸の音だけで確認し合っている。もしかしたら、私たちはまだ、お互いのことを完全に理解してはいない。それでも、この湯気の中で視界が白く滲んでいるときだけは、それでいいと思えた。ふと、どちらからともなく水面に落ちた花びらを数え始めたけれど、三枚目でどちらかが変な顔をしたせいで、結局いくつあったのか忘れてしまった。そんな、取るに足らない、けれど愛おしい空白。夕食に運ばれてきた料理から立ち昇る湯気が、向かい合うあなたの表情を柔らかくぼかしていた。地元の食材を丁寧に炊き上げた煮物の、出汁の深く澄んだ味わいが舌の上に広がり、温かいご飯の甘みが、旅の緊張を静かにほどいていく。箸が触れ合う小さな音さえも、心地よいリズムとなって耳に届く。窓の外では、有馬の街に夜の帳が下り、街灯に照らされた桜が、夜風に揺れている。駅から有馬ロイヤルホテルまで歩いたあの5分間、硫黄の香りが混じった冷たい空気に身を縮めていたのが、遠い昔のことのように感じられる。深夜、静まり返った部屋で、隣に誰かがいるという事実だけが、確かな重みを持ってそこにあった。凛とした夜の冷気を孕んだ布団の張り詰めた感触に潜り込み、互いの足先が触れ合ったとき、小さな電気信号のような温もりが伝わってきた。それは言葉にするにはあまりに小さく、けれど、どんな約束よりも誠実な温度だった。翌朝、午前7時の光が障子越しに淡く差し込み、空気中に舞う小さな光の粒子が踊りながら、世界がゆっくりと色を取り戻していく。コーヒーの香りが漂い始め、私たちはまだ眠い目をこすりながら、今日という日をどう過ごそうかと、とりとめもない話を始めた。正解なんてどこにもないけれど、この場所で、この温度で、あなたと一緒に呼吸をしている。それだけで、十分な気がする。私たちは、またゆっくりと、自分たちのリズムを合わせていくのだろう。桜の花びらが水面に触れるまでの、あの心地よいラグを抱えたままで。

  • 宿泊後はぜひ、六甲枝垂れの幻想的なライトアップまで足を伸ばして、夜の静寂に溶け込む光の粒子を二人で眺めてみてください。
  • 温泉街の細い路地をあてもなく歩き、ふと見つけた小さなお店で、有馬ならではの甘いお菓子をひとつ、分け合って食べる時間を。