← 戻る 有馬温泉 ホテル メープル有馬

指先に残った、淡い桃色の温度

舌の上でほどける、淡い桃色の記憶

チェックインを済ませ、静寂に包まれたラウンジで最初に出会ったのは、春の訪れを告げる淡い桃色の和菓子だった。目の前に置かれた黒い陶器の皿は、指先に心地よい冷たさを伝え、その上に鎮座するお菓子は、触れれば吸い込まれてしまいそうなほど柔らかい。添えられた温かいお茶から立ち上る、ほのかな茶葉の香りが鼻腔をくすぐる。口に運ぶと、まずは桜葉の鮮やかな塩気が、冬の間に深く眠っていた感覚をゆっくりと揺り起こした。その直後にやってくる控えめな甘さが、喉の奥で静かにほどけていく。甘いだけではなく、どこか切ない塩味が混ざり合うその味わいは、今の私たちに似ている気がした。「ちょうどいい距離」を測りかねて、言葉を選びすぎてしまうもどかしさと、それでも隣にいたいという温かさが同居している。もしかすると、この繊細な味こそが、三月の有馬という場所が用意してくれた、本当の入り口だったのかもしれない。誰に教わったわけでもないけれど、ただそこに座って同じ味を共有しているだけで、言葉にできない安心感が、春の陽だまりのようにゆっくりと胸のあたりに溜まっていくのが分かった。

銀色の静寂に、心まで溶け出す時間

部屋へと向かう廊下は、外界の喧騒を完全に遮断したように静まり返っており、自分の足音がわずかに反響していた。足裏に伝わる絨毯の厚みが、歩くたびに身体を深く沈み込ませ、日常の緊張を一枚ずつ剥ぎ取っていく。客室のドアを開けると、そこには三月の午後の、少しだけ青みがかった白い光が満ちていた。十五タイプもの多彩な客室を備える有馬温泉 ホテル メープル有馬の空間は、どれも旅人の心を解きほぐす配慮に満ちている。窓の外では、まだ色がつききっていない木々が静かに佇んでいるが、隙間から流れ込む空気の中には、確かな春の気配が混ざっていた。そんな光に誘われるように、私たちは大浴場へと向かった。そこで出会った銀泉は、驚くほどに透明で、静謐な鏡のように空間を映し出していた。金泉のような強い主張はなく、ただ静かに、そこに在る。お湯に身体を沈めると、それは水というよりも、極上の薄い絹の膜が肌を包み込んでいるような感覚だった。皮膚の表面を滑るお湯の質感は驚くほど滑らかで、まるで身体の境界線が曖昧になり、自分という存在が湯の中に溶け出していくみたいだった。お湯の温度が、ゆっくりと心拍数に同期していく。耳に届くのは、遠くで誰かが立てた小さな水音と、自分の深い呼吸の音だけ。ここでは、何者かになろうとする必要はない。ただ、この透明な重みに身を任せていればいい。そう思うと、肩の力がふっと抜け、視界が水彩画のように柔らかくなった。お風呂上がりに裸足で踏んだタイルのひんやりとした温度が、心地よく頭を冷やしてくれる。私たちは、ただそこにいて、同じ温度を共有していた。

不器用な笑いと、不確かな春の約束

部屋に戻り、二人で肩を寄せ合ってスマートフォンの画面に映る桜の開花予想を眺めていた。線が右肩上がりに伸びていくグラフ。けれど、実際の花がいつ咲くのか、誰にも正確には分からない。その「ラグ」があることが、なんだa心地よかった。正解がすぐに分からないままでいい。むしろ、その不確かさこそが、旅の醍醐味なのだと思う。ふと、あなたが私の頬についた和菓子のクリームに気づいて、小さく笑った。「あ、ついてるよ」というあなたの声に、私は慌てて拭こうとしたけれど、指が滑って、今度は鼻の頭にクリームをつけてしまった。その滑稽な様子に、あなたは堪えきれない様子で声を上げて笑い、私もつられて笑った。そんな、なんてことのない、本当に些細な瞬間。けれど、その笑い声が、部屋の空気を一気に軽やかにした。私たちは、完璧なパートナーになろうと頑張りすぎていたのかもしれない。けれど、ここでは、不器用なままでも、少しだけ笑い合える。もしかすると、私たちはこの旅で、正解を探すことよりも、不確かさを一緒に楽しむ方法を学んでいるのかもしれない。窓の外では、まだ蕾のままの花たちが、静かにその時を待っている。私たちも、その花たちと同じように、ゆっくりと、自分たちのリズムで開いていけばいい。そう思うと、隣にいるあなたの体温が、心地よい重みを持って伝わってきた。

カーテンの隙間から、薄い藍色の夜が静かに忍び込んできた。

  • ラウンジで提供される高田屋珈琲の深い香りに包まれながら、ゆっくりと読書を。
  • 瑞宝寺公園まで十分ほど歩き、まだ眠っている春の気配を二人で探してみる。