← 戻る ANAインターコンチネンタル別府リゾート&スパ

ほどけかけた指先と、春の湿度

ほどけかけた指先と、春の湿度

裸足で踏み出したフローリングの、芯まで凍えるような冷たさが、足の裏からゆっくりと心臓まで伝わってくる。午前六時のANAインターコンチネンタル別府リゾート&スパの客室は、まだ誰の体温も吸い込んでいない深い静寂に満ちていて、その静けさは心地よい重みを持って私の肩に降りかかってくる。高い位置に構えられた部屋から見下ろす別府の街は、淡い群青色の霧に深く包まれ、あちこちから立ち昇る白い湯煙が、まるで街全体が深く、静かに呼吸を繰り返しているかのように見えた。隣でまだ深い眠りに落ちている君の、規則的で穏やかな呼吸音を耳にしながら、私はただ、厚いカーテンの隙間から差し込む薄い光が、白い壁をゆっくりと、けれど確実に移動していくのを眺めていた。私たちは、お互いの人生のリズムを合わせるのがあまり得意ではない。歩く速度が違えば、沈黙に耐えられる時間の長ささえも違う。けれど、この場所が湛える静寂は、そんな不器用なズレさえも優しく許してくれる、柔らかな質感を持っている。ふとバルコニーへ出ると、四月の湿り気を帯びた春風が、冷えた頬をそっと撫でた。空気の中には、別府特有のかすかな硫黄の香りと、どこか遠くの山裾で咲き誇っているであろう桜の甘い匂いが混じり合い、肺の奥まで満たしていく。街を歩けば、濡れたアスファルトの上に散らばった薄紅色の花びらが、雨上がりの水たまりに張り付いていて、その儚く繊細な輪郭が、網膜に鮮やかに焼き付いた。「ねえ、見て」と小さく呟いた私の声は、風に溶けて消えたけれど、指先が触れ合った瞬間に伝わる確かな体温だけで、今のこの至福を共有できていた。スパの温泉に身を沈めたとき、肌と水の境界線がゆっくりと消えていく、心地よい喪失感に襲われた。お湯の表面張力が、私たちの身体を優しく、けれど確実に包み込み、日常の喧騒で張り詰めていた心の薄い膜を、ゆっくりと、丁寧に溶かしていく。水の中で重力から解放され、ただ漂っていると、隣にいる君の存在が、単なる物理的な距離ではなく、温かな共鳴として心に伝わってきた。この浮遊感こそが、私たちがずっと探し求めていた、静かな答えだったのかもしれない。湯上がりに、ホテルが用意してくれた真っ白なバスローブに身を包んだとき、それが私には少し大きすぎて、まるで迷子の白い雲になったような気分だった。その格好で鏡の前に立つ私を見て、君がふっと小さく吹き出した。その予期せぬ軽い笑い声が、張り詰めていた空気をふわりと緩め、心地よい緊張感を解いてくれた。朝食でいただいた地元の新鮮な野菜の、大地の力強さを感じる甘みと、湯気が立ち昇る炊き立てのご飯の香ばしい匂いが、身体の芯からゆっくりと熱を広げていく。口の中に広がる滋味深い味わいは、忘れかけていた素朴な幸福感を思い出させてくれた。完璧な旅なんてどこにもないし、きっとこれからも私たちは、互いの違いに戸惑いながら迷い歩くのだろう。けれど、この場所で感じた水の柔らかさと、君の隣で過ごした贅沢な空白の時間があれば、それだけで十分だという気がする。チェックアウトのとき、ロビーに差し込む黄金色の光が、私たちの影を長く、けれど寄り添うように伸ばしていた。別府の街を離れるとき、バックミラーに映る白い湯煙が、いつまでも私たちを追いかけてくるような心地がした。私たちは、ただ一緒にそこにいた。それだけで、十分すぎるほど贅沢な時間だったのだと思う。

  • 朝一番に、街に立ち昇る湯煙を眺めながら、ゆっくりとコーヒーを淹れる時間を持ってほしい。
  • 誰に気兼ねすることなく、大きめのバスローブに包まれて、二人でとりとめもない話をしてみてください。