← 戻る ホテルエール

指先に残った、浴衣の糊の匂い

潮風が運ぶ、二人の空白の距離

エアコンが低く、一定の周波数で唸っている。その単調な音が、部屋の中の静寂をかえって鮮明に輪郭づけていた。ホテルエール / Hotel Aileのダブルルームに足を踏み入れたとき、まず目に飛び込んできたのは、窓から差し込む七月の強い陽光が、真っ白なシーツの上に描いた鋭い直角の影だった。裸足で触れた床は、外の湿った熱気とは対照的にひんやりとしていて、足裏から心地よい緊張が伝わってくる。けれど、隣にいる君との間には、目に見えないけれど確かな隙間があった。ソファに深く腰掛けた君と、窓の外に広がるベイサイドビューを眺める僕。その距離はわずか二メートルほどなのに、今の僕たちには、それが深い海を隔てた遠い街のように感じられた。「この空白は、壁なのだろうか、それとも橋なのだろうか」。そんな問いが頭をよぎるが、答えを出すのはまだ早い。けれど、その空白こそが、今の僕たちにとって最も心地よい温度だった。無理に埋めようとせず、ただそこに在ることを許し合う。そんな静かな合意が、潮風を含んだ部屋の空気に溶け込んでいた。

湯気に溶け合う、言葉なき合意

屋上露天風呂に身を委ねると、熱いお湯が肌の境界線を曖昧にしていく。ふと顔を上げれば、目の前には別府の街並みと、淡い藍色に染まり始めた黄昏時の空が広がっていた。立ち上る白い湯気に包まれ、視界が心地よくぼやける。ふわりと漂う温泉特有の硫黄の香りが、日常のしがらみや、心に溜まった澱をゆっくりと洗い流してくれるようだった。隣で同じ景色を見つめる君の肩が、ほんの一瞬だけ僕の腕に触れた。そのとき、言葉にする必要のない何かが、お湯の温度と一緒にゆっくりと伝わってきた気がする。僕たちは、お互いの正解を言い合うことに疲れ果てていたのかもしれない。ただ、同じタイミングで深く息を吐き、同じタイミングで目を閉じる。それだけで十分だった。ふいに、君が「お湯、ちょうどいいかも」と小さく笑った。その声が、しっとりとした湿度を持って耳に届く。完璧な理解なんて、きっとどこにもない。けれど、この熱い湯の中で同じ方向を向き、同じ温度の風に吹かれている。その事実だけが、今の僕たちにとっての唯一の真実だった。ヨットハーバーで小さく揺れる白い船たちが、僕たちの曖昧な関係を静かに肯定してくれているように見えた。

ほどけていく、それぞれの静寂

部屋に戻り、用意されていた浴衣に袖を通す。新品の綿生地はまだ硬く、肌に触れるたびに心地よい緊張感が走った。あの糊の匂いは、どこか懐かしく、同時に少しだけ不器用な僕たちの今の距離に似ている気がする。君が帯をうまく結べずに格闘しているのを、僕は少し離れたところから眺めていた。結局、僕が手伝うことになったが、指先がもつれて二人で盛大に笑ってしまった。そのとき、生地の硬さが少しだけ緩み、肌に馴染んでいく感覚があった。その後、僕たちはあえて会話を止めた。僕はベッドの端で本を開き、君は鏡の前で髪を整える。同じ空間にありながら、それぞれが自分の静寂に潜る。それは孤独ではなく、深い信頼に近い何かだった。別府駅まで歩いたときに嗅いだ、蒸したての野菜の甘い香りが、まだ記憶の端に残っている。祭りの喧騒に向かう前の、この贅沢な空白。糊がゆっくりと解けていくように、僕たちの間の緊張も、心地よい柔らかさに変わっていた。もしかすると、旅の目的は何かを見つけることではなく、こうして一緒に「分からないまま」でいられる時間を持つことだったのかもしれない。

オレンジ色の壁に、夜の潮風が静かに吹き抜けていった。

  • 七月の別府駅周辺で、地元の人に愛される蒸し料理の店にふらっと立ち寄ってみてほしい。
  • ホテルエール / Hotel Aileの屋上露天風呂で、あえて会話を止めて夜景に浸る時間を。