← 戻る 別府温泉 天空湯房 清海荘

湯気に溶けた、名前のない笑い声

視界に溶け込む、名付けようのない青

午前七時の別府湾は、まだ誰の手にも触れられていない深いインクをぶちまけたような、濃密な青色をしていた。窓の外に広がるその静謐な景色を前にして、上の子は「これは紺色だ」と言い張り、下の子は「違うよ、青色だよ」と、正解のない議論を始めた。二人の小さな指が、冷たいガラス越しに水平線をなぞっている。その光景を眺めていると、旅というものは目的地に辿り着くことではなく、こういうどうでもいい言い争いをどこでやるか、という場所選びのことなのかもしれない。別府温泉 天空湯房 清海荘の海側和室から見える景色は、ただ広いだけではなく、家族の間に流れる不器用な空気感さえも優しく包み込んでしまうほどの包容力があった。視界の端では、夫がまだ眠そうな目で、湯気の立つコーヒーをゆっくりと啜っている。完璧な調和なんてどこにもないけれど、この不揃いな視線が同じ方向に向けられている時間だけは、心地よい重さを持ってそこに存在していた。朝の光が水面に砕け、銀色の鱗のようにきらめくたび、私たちの心の中にある小さなわだかまりも、一緒に洗い流されていくような心地がした。

屋上に響き渡る、不器用な家族のリズム

裸足で踏みしめる屋上への階段は、ひんやりとした冷たさを帯びていて、登るたびに心拍数を静かに上げていく。展望貸切露天風呂に足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる空気がふわりと軽くなった。子供たちが歓声を上げて湯船に飛び込む。パシャリ、という弾ける水音が、高い空に向かって吸い込まれていく。その音は、都会の喧騒の中ではかき消されてしまうような小さな断片だけれど、ここでは驚くほど鮮明に、そして純粋に耳に届く。誰かが笑い、誰かがわざと水をかけ、また誰かがそれに抗議する。そんな騒がしさが、不思議と心地よい音楽のように聞こえてきた。もしかしたら私たちは、静寂よりも、こういう「心地よい騒音」を求めてここに来たのかもしれない。遠くで別府の街の音が低く唸っているけれど、この屋上の空間だけは、家族という小さなチームだけの秘密基地のような、心地よい隔絶感に満ちていた。最後の一人がお湯から上がるまで、空はゆっくりと、熟した柿のような琥珀色に染まっていった。

抗菌畳の凛とした冷たさと、足指の温度

部屋に戻ると、足裏に触れる抗菌畳の質感が、さらりと心地よかった。適度な弾力がありながら、どこか凛とした冷たさを持っている。上の子が畳の上をごろごろと転がり、下の子がその背中を登ろうとして、二人でもつれ合っている。その様子を眺めながら、私はふと、家族という関係性は、この畳のように、互いの重みを支え合いながらも、適度な距離感を保つためのクッションのようなものだと思った。近すぎても遠すぎてもいけない、絶妙な隙間を私たちはずっと探し続けている。ふと、最上階海側足湯付和室のバルコニーで足湯に浸したときのことだ。下の子が忽然、「あ!魚がいる!」と大声を上げた。慌てて覗き込むと、そこにいたのは魚ではなく、彼自身の小さくて丸い足指だった。そのあまりにも単純な勘違いに、家族全員が同時に吹き出した。そのとき、足元から伝わってきたお湯の温度が、ちょうどいい心地よさで、心の中の凝り固まった何かが、ゆっくりとほどけていくのがわかった。肌に触れる温もりは、言葉よりもずっと雄弁に、今の幸せを教えてくれていた。

地獄蒸しの白い湯気と、分け合った大地の甘み

地獄蒸し工房で味わった、土の熱で蒸し上げられた野菜たちの味。口に入れた瞬間、素材そのものが持つ純粋な味が、驚くほど鮮やかに広がった。特に、じっくりと時間をかけて蒸されたサツマイモの、あの濃密でねっとりとした甘み。それを小さくちぎって、家族で分け合った。子供たちは「甘い!」と目を輝かせ、夫は「大地のエネルギーを感じるな」なんて、少し気取った言い方をして笑っていた。食事というものは、単に栄養を摂ることではなく、同じ味を共有することで、「今、私たちは同じ時間を生きている」ということを確認する儀式のようなものなのかもしれない。立ち上る白い湯気が視界をぼんやりと染め、隣に座っている人の顔が霞んで見える。けれど、その霞みの向こう側にある温もりだけは、はっきりと伝わってきた。豪華なフルコースよりも、こういう、土の匂いがする素朴な味が、今の私たちには一番しっくりときた。口の中に残るほのかな硫黄の香りが、ここが特別な場所であることを思い出させてくれた。

ヒノキの深い香りと、秋風に託した記憶

ロビーに足を踏み入れたとき、最初に鼻をくすぐったのは、深く静かなヒノキの香りだった。それは、記憶の奥底にある、どこか懐かしい場所へ連れて行かれるような感覚。九月の別府の風は、少しだけ湿り気を帯びていて、庭園に揺れるすすきの白さが、夕暮れの光に溶け込んでいた。竹林を通り抜ける風の音が、サササッ、と耳元をかすめる。その音を聞いていると、自分たちが抱えていた日常の小さな悩みや、誰にも言えなかった不安が、風にさらわれてどこか遠くへ消えていくような気がした。あるいは、消えたのではなく、ただ「そういうものだ」と受け入れられるようになっただけなのかもしれない。別府温泉 天空湯房 清海荘を後にするとき、子供たちは心地よい疲れで、私の肩に頭を預けていた。その小さな体から伝わる規則正しい呼吸と、かすかに残る温泉の香りが、何よりも確かな旅の証拠のように感じられた。私たちは、またいつか、この不器用なチームでここに戻ってきたいと思うだろう。去り際に振り返った宿の灯りが、夜の闇に優しく滲んでいた。

子供たちが眠った後の静まり返った車内には、心地よい疲労感だけが満ちていた。

  • 屋上の貸切温泉では、あえて時間をずらして、夜の静寂と朝の光の両方を味わってみてほしい。
  • 庭園のすすきが揺れる時間帯に、家族でゆっくりと散歩をしながら、とりとめのない話をすることをお勧めします。