「ちょうどいい温度かも」
「ねえ、熱くない?」
君が小さく呟く。足湯に浸かったばかりの指先が、冷たい外気に触れて淡い桜色に染まっていた。
「うーん、どうだろう。私は、ちょうどいい気がする」
わざと曖昧に答えて、隣に座る君の肩に、そっと自分の肩を寄せた。11月の冷ややかな風が、濡れた肌をなでて体温を奪おうとする。けれど、隣から伝わる確かな温もりがそれを優しく押し返していた。私たちはまだ、お互いの適切な距離を測りかねている。そんな、不器用で心地よい静寂が、白い湯気と共にゆっくりと漂っていた。
表面張力がほどける場所
別府の街に降り立った瞬間、濃い硫黄の香りが鼻をくすぐり、ここが日常から切り離された特別な場所であることを告げていた。界 別府へ向かう道すがら、視界を白く染める湯気が世界を曖昧にし、輪郭をぼかしていく。その不確かさが、かえって心地よかった。はっきりと見えすぎないことは、時に心を救う。
客室の「柿渋の間」に足を踏み入れると、乾いた柿渋の渋みと古い木材の香りが混じり合い、肺の奥までゆっくりと満たされていく。裸足で触れた床のひんやりとした質感は、外の冷たさを記憶しているけれど、同時に誰かが丁寧に手入れしてきた温もりを湛えていた。ベッドから窓辺まで、ゆっくり歩いて三歩。そこから見える11月の海は、低い空を映して重たい青色をしていた。その深い青が、私の心にある名付けようのない不安を、静かに飲み込んでくれるような気がした。
浴室で目にした臼杵焼のモチーフ。指先でその縁をなぞると、釉薬のわずかな凹凸が皮膚に小さな刺激を与える。滑らかさと、ざらつき。その矛盾した感触が、今の私たちの関係に似ていると思った。お湯に身を委ねていると、皮膚の境界線が溶けて、自分がどこまでで、お湯がどこからなのか分からなくなる。それはまるで、二つの水滴が葉の上でゆっくりと近づき、表面張力が限界を迎えて、ふっとひとつに溶け合う瞬間のようだった。私たちは、無理に混ざり合おうとしなくていい。ただ、同じ温度の中にいれば、自然と浸透し合えるのかもしれない。
夕食にいただいた地獄蒸しの野菜は、土の熱だけでゆっくりと火が通っており、素材本来の甘みがじわりと舌に広がった。飾り気のない、正直な味。もしかすると、私たちはこういうシンプルな心地よさを探していただけなのかもしれない。食事の途中で、私は浴衣の裾をうまく捌けずに少しよろけた。君が小さく吹き出した。その笑い声が、張り詰めていた空気をふっと緩ませる。完璧である必要なんてない。むしろ、その隙間にこそ、本当の会話が入り込む余地があるのだ。
夜、部屋に戻ってから、窓の外に広がる街の灯りを眺めていた。遠くで上がる芸術花火が、夜空に一瞬だけ鮮やかな色を散らし、すぐに闇に溶けていく。その消えゆく速度が、たまらなく美しかった。私たちは、言葉を尽くして何かを確認し合うよりも、ただ隣で同じ光を見ているだけで十分だった。呼吸のテンポが、ゆっくりと、同じリズムに重なっていくのが分かった。
湯気が晴れたとき、君が小さく笑っていた。
- 街の湯気に巻かれながら、あてもなくゆっくり歩いてみない?
- 指先がしわしわになるまで、二人でぼーっとお湯に浸かっていよう。