← 戻る オールドイングランド 道後山の手ホテル

靴を脱いだ瞬間に、どこか遠くへ行った気がした

レザーのバッグの上に、桜の花びらが一枚、また一枚と静かに降り積もっていく。十枚数えたところで、「もういいや」と諦めて笑った。誰が一番「イギリス紳士」っぽく振る舞えるかという、どうでもいい賭けをしながら、オールドイングランド 道後山の手ホテルの赤いレンガの前に立った。道後温泉の街並みの中で、ここだけが異なる時間軸で呼吸しているようで、心地よい違和感に包まれる。



ディナーのフレンチ。指先に触れる銀色のカトラリーが、ひやりと冷たい。溶けたバターの芳醇な香りが鼻をくすぐり、重厚なテーブルクロスのざらりとした感触が、自分たちが今、どこか気取った場所にいることを思い出させる。けれど、口に入れた料理の濃厚な味わいに、結局みんなで黙り込んだ。食欲という本能の前では、紳士の振る舞いなんて、春の霧のようにあっけなく消えてしまう。


「いや、その格好で貴族ぶるのは無理があるでしょ」と、誰かが吹き出した。バスローブを羽織り、わざとらしくティーカップを掲げる友人の姿。私たちは、この「王国」というコンセプトを全力でいじり合いながら、同時にその不自然さに心地よさを感じていた。完璧じゃないからこそ、私たちはここにいてもいいのだという、妙な安心感が胸に広がった。


ロビーにある紋章をじっと眺めていた。盾の中に刻まれたシンボルたちが、誇らしげにこちらを見下ろしている。けれど、その厳格な空気感さえも、私たちの騒がしい笑い声で塗りつぶされていく。伝統というものは、壊していい部分と、守るべき部分がある。私たちはきっと、前者の楽しみ方を熟知しているチームなのだろう。


午前七時。エグゼクティヴルームの窓から差し込む光が、少しだけ青い。肌に触れる朝の空気がひんやりとしていて、意識がゆっくりと覚醒していく。壁一面の本棚に囲まれていると、自分が古い映画の中の脇役にでもなったような気分になる。コーヒーを淹れるまでの数分間、ただ静寂のテクスチャを深く味わっていた。


裸足で踏みしめたウッドフローリングの、乾いた温度。歩くたびに小さく鳴る木のきしみは、この建物が積み重ねてきた時間の記録みたいだ。バスルームまで歩くわずか数歩の距離に、心地よい孤独と、隣の部屋から聞こえる友人の寝息が混ざり合っている。この絶妙な距離感が、今の私たちにはちょうどいい。


足寄の湯まで歩く道すがら、春の風が頬を撫でた。硫黄の香りが混じった空気が、肺の奥まで満たしていく。ふと気づくと、三人とも偶然似たような色のベージュの服を着ていた。誰が決めたわけでもないのに、なんだかチームっぽくて、それがたまらなく可笑しくて、道端でしばらく笑い転げた。


チェックアウトの時、スーツケースの重さが、旅の記憶の重さみたいに感じられた。何も解決していないし、新しい自分になれたわけでもない。けれど、Old England Dogo Yamanote Hotelで共有したくだらない時間だけは、確かにそこにある。正解なんてなくていい。ただ、心地よい周波数で笑い合えたなら、それで十分な気がする。

窓枠の隙間に、最後の一枚の桜が挟まっていた。

  • ぜひディナーのフレンチを。お腹いっぱいになって、全部忘れるのが正解。
  • 裸足で廊下を歩いてみて。木の温度が、意外と心地いいから。