真夜中の共犯者、誰が食べたいと言い出したか
湿ったアスファルトの匂いと、肌にまとわりつく八月の夜気。下呂の街を歩く浴衣の裾が、歩くたびに足首にまとわりつき、心地よい不自由さを運んでくる。遠くで鳴り響く盆踊りの太鼓が、心拍数と同調するように低く震えていた。そんな熱を帯びたまま、私たちは「下呂温泉 冨岳」の重厚な扉を潜った。誰が言い出したのかはもう曖昧だが、展望風呂付 スイート和洋室という贅沢な空間に足を踏み入れた瞬間、不意に「何か足りない」という共犯者のような呟きが漏れた。結局、私たちは浴衣のまま夜の街へ戻り、コンビニの揚げ鶏とスナック菓子を買い込んだ。プラスチックの袋越しに伝わる油の熱が、指先にじわりと心地よく、私たちは自分たちの人生で経験したことのない広大な畳の海へと戻っていった。エアコンの冷気が肌を撫で、外の熱気が嘘のように消えていく。けれど、手の中にあるコンビニの熱い残骸だけが、私たちが今ここにいるという生々しい現実を繋ぎ止めていた。
揚げ鶏の音と、とりとめない告白
「ねえ、この部屋広すぎない? 部屋の中で迷子になれるレベルなんだけど」
誰かがそう言って、わざと大げさに畳の上を転がった。私たちは広大な空間のど真ん中ではなく、なぜか部屋の隅っこに、小さく円を描くように集まった。琥珀色の間接照明が、私たちの影を畳の上に長く、濃く落としている。
「っていうか、あなたさ。激辛のポテトチップス買ったでしょ。私、辛いの無理だって言ったよね?」
「あ、ごめん。つい。まあ、この揚げ鶏で中和すればいいじゃん」
「中和って、料理人かよ。それに見てよ、ここスイートなんだよ? なのに私たちは今、畳の上でコンビニの揚げ鶏を齧ってる。この状況、誰かに報告したいくらいシュールじゃない?」
「いいじゃん、最高だよ。この静寂の中で、サクッという咀嚼音だけが響いてる。これこそが究極の贅沢なんじゃないかな」
プシュッという鋭い缶茶の音が、波紋のように広がって消えていく。計画通りにいかなかったこと、人混みに揉まれて花火を半分しか見られなかったこと。そんな旅の「失敗」を肴に笑い合う。不格好で予定外な時間こそが、いま私たちが共有している一番確かな質感だった。
「ねえ、もしここで迷子になったら、誰が誰を助けに来ると思う?」
「とりあえず、食べ物の匂いがする方に集まればいいんじゃない?」
そんなくだらない会話が、夜の深い青色に溶けていく。私たちは、この広すぎる部屋の主役になろうとするのではなく、ただその一部として、小さく、静かに、そこに存在していた。
満たされた胃袋と、心地よい空白
袋の中身が空になり、最後の一欠片まで食べ尽くしたとき、部屋にふっと深い静寂が戻ってきた。それは空虚ではなく、満たされた後の心地よい余白だった。誰一人として、無理に会話を繋げようとはしない。ただ、窓の外から忍び寄る飛騨川のせせらぎが、部屋の隅々までゆっくりと満たしていく。畳のい草の香りが夜の冷気と混ざり合い、鼻腔を優しくかすめる。三十畳の空間は、もはや広すぎるとは感じなかった。それは、私たちの間に流れる沈黙を、大きな器のように包み込んでくれる場所へと変わっていた。誰かが小さくあくびをし、もう一人がゆっくりと伸びをする。そんな些細な音が、心地よいリズムとなって空間に刻まれている。私たちは、自分たちが何者であるか、明日どこへ行くのかということさえ、一度忘れていいのだと感じた。ただここにいて、同じ温度の空気を吸っている。それだけで十分だった。もしかしたら、旅の本当の目的は、目的地に辿り着くことではなく、こういう「何もしない時間」を誰かと分かち合うことにあるのかもしれない。
月明かりが畳の上に、細長い銀色の道を引いていた。
- 下呂の地元の菓子店で買った、少しだけ甘すぎる羊羹と冷たい緑茶
- コンビニで迷った末に買った、名前も知らない地域の限定フレーバーのおつまみ