真夜中の誘惑に負けた、言い訳のない夜
七月の下呂は、空気そのものが温かい水のように肌にまとわりつく。指先にまでまとわりつく濃密な湿気は、まるで街全体が深い水底に沈んでいるかのような錯覚を抱かせた。私たちは、誰が言い出したかも分からないまま、浴衣の裾を気にしながら「いでゆ夜市」へと繰り出した。下駄が石畳を叩く乾いた音が、夜の静寂に心地よい波紋を広げていく。ぶっちゃけ、夕食でお腹はいっぱいだったはずなのに、街灯の下で湯気を上げる地元の珍味や、結露した瓶に入った冷えた飲み物の誘惑には、どうしても勝てなかった。夜市の屋台から漂う、香ばしい醤油の焦げた匂いと甘い菓子の香りが、空腹ではないはずの胃袋を心地よく刺激する。プラスチックの袋が指に食い込む感触と、中で氷がカランと鳴る涼やかな音。それを大切そうに抱えて川上屋花水亭へ戻る道すがら、私たちは誰が一番先に転ぶかに賭けていた。結果的に誰も転ばなかったけれど、浴衣に慣れない歩き方があまりにぎこちなくて、自分たちで笑い転げた。そんな、どうでもいい、けれど何物にも代えがたい心地よい時間だった。
咀嚼しながらこぼれ落ちた本音
部屋に戻ると、ひんやりとした畳の感触が足裏から心地よく伝わってくる。露天風呂付スイートの贅沢に広い空間に、私たちの笑い声が少しだけ反響した。テーブルの上には、夜市で買った地元の菓子と、夕食で堪能した飛騨牛の濃厚な余韻がまだかすかに漂っている。私たちは、あえてメインの照明を落とし、間接照明が落とす淡い琥珀色の光の中で、円になって座った。
「ねえ、ぶっちゃけ今の仕事、向いてないと思わない?」
誰かがポツリと、独り言のように呟いた。普段なら「そんなことないよ」と適当に流して、空気を読み合うはずの会話が、この夜は違った。飛騨牛の濃厚な脂が口の中でゆっくりと溶ける感覚と、冷えたお茶の心地よい苦味が混ざり合う。私たちは、都会で演じている「有能な自分」という薄い皮を、一枚ずつ丁寧に剥いでいくみたいに話し始めた。誰にも言えない仕事上の失敗談や、深夜にふと感じる正体不明の不安。誇張しすぎかもしれないけれど、あの時の私たちは、きっと人生で一番正直だった。
「っていうか、私たち、ずっと大人ぶってただけだよね」
そう言って笑い合ったとき、誰かがお菓子を口いっぱいに詰め込んで激しくむせていた。その情けない姿に、また全員で爆笑する。純和風の静寂を壊している自覚はあったけれど、それがたまらなく心地よかった。誰に気兼ねすることもなく、ただここにいていいという絶対的な安心感。深夜三時の静寂の中で、私たちはただの「幼い自分たち」に戻っていた。
満たされた胃袋と、川の音に溶ける静寂
お菓子が尽き、熱を帯びていた会話も自然と途切れた。部屋の外からは、飛騨川のせせらぎが低く、一定のリズムで絶え間なく聞こえてくる。その音は、まるで古い壁をゆっくりと浸食していく深い緑の苔のように、私たちの間にあった見えない境界線を静かに塗りつぶしていく気がした。都会で身につけた、相手との距離を測るための計算や、波風を立てないための心地よい嘘。そんなものが、この宿の深い静けさと川の音に飲み込まれて、ただの心地よい空白に変わっていく。部屋の隅にある坪庭から、夜風に揺れる葉の擦れる音がかすかに聞こえ、それが心地よいリズムとなって意識を遠のかせていく。
ふと気づくと、誰かが畳の上で静かに寝息を立て始めていた。その規則正しい呼吸音が、部屋の温度をさらに柔らかく、温かくする。何もない空白の空間が、実は一番の重みを持っているのかもしれない。欠けている部分があるからこそ、そこに誰かが入り込む余地が生まれる。私たちは、完璧な旅を計画したわけではないし、人生の正解を見つけたわけでもない。ただ、この湿った夜に、同じリズムで呼吸をしていた。それだけで、十分すぎるほどだった。
月明かりに照らされた廊下に、脱ぎ捨てられた下駄が二足、静かに並んでいた。
- 下呂の地酒と一緒に、地元の味噌漬けを少しだけ。塩気が夜の会話を加速させる。
- 翌朝の「いでゆ朝市」で買う、焼きたての地元の銘菓。冷めたお茶と一緒に。