← 戻る 桜 River Side Stay 下呂温泉

雨の音が、ふたりの距離を書き換えていた

雨の音が、ふたりの距離を書き換えていた

飛騨川のせせらぎと、数歩の空白

下呂駅に降り立ったとき、まず鼻をくすぐったのは、雨に濡れたアスファルトと、どこか遠くで咲いている紫陽花の、少しだけ青い匂いだった。傘を差して歩く道のりは心地よいほどに静かで、隣を歩く君の肩が時折私の肩に触れるたび、心臓の鼓動が速くなるのがわかった。私たちはまだ、お互いの心地よい距離を測りかねている、そんな危うくて優しい季節の中にいたのかもしれない。

桜 River Side Stay 下呂温泉のドアを開けた瞬間、外の湿った空気とは違う、乾いた木の温もりを含んだ静寂が私たちを迎えてくれた。案内されたダブルルームに入り、まず意識したのは、セミダブルベッドから窓辺までにある、わずか数歩の空白だった。その短い距離が、今の私たちにはとても意味深く、時に果てしなく深い川のように感じられる。窓の外には飛騨川が流れていて、6月の低い雲に覆われた空を映して、鈍い銀色に光っていた。ベッドに腰を下ろすと、リネンのひんやりした感触が太ももに伝わり、心地よい緊張感が走る。君は窓辺に立ち、川の流れを黙って眺めていた。私はベッドに座ったまま、君の背中を見つめていた。「綺麗だね」と小さく呟いた君の声が、静寂に溶けていく。この数メートルの空間に、言葉にできない感情が薄い膜のように張り詰めている。けれど、それは不快な緊張ではなく、むしろお互いの輪郭を確かめ合うための、必要な空白だったのかもしれない。

味覚が溶かし出す、名もなき共鳴

夕食の時間、私たちはリバービューレストランのテラスに近い席に座った。目の前には、ドイツ人シェフのエルウィンさんが手がける、この場所ならではの独創的な料理が並んでいた。運ばれてきた本格的なスペアリブを口にしたとき、濃厚なソースの甘みとスモーキーな薫香が、舌の上でゆっくりと広がった。それは、日本の温泉街という静謐な風景の中で、ふと異国の街角に迷い込んだような、心地よい違和感だった。指先に付いたソースを拭うとき、君が小さく笑った。その笑顔を見たとき、胸の奥にある重たい塊が、ふっと軽くなった気がした。

壁に描かれたシェフの似顔絵の前に立ち、ある角度から写真を撮ると、まるでシェフと一緒に乾杯しているように見えるという。私たちはそれに挑戦して、何度も角度を変えては、「あ、いま惜しかった」と笑い合った。そんな、どうでもいいことに時間を費やす贅沢。それが、今の私たちにとって一番必要なことだったのかもしれない。キンと冷えたドイツビールを一口飲み、喉を通る鋭い冷たさと炭酸の刺激に、ふっと肩の力が抜けた。グラスの表面に結露がつき、指先に冷たい雫が伝わる。私たちは多くを語らなかった。ただ、同じ味を共有し、同じ景色を眺めている。それだけで、言葉という不確実な道具を使わなくても、「一緒にいていい」という静かな合意に達していた。心地よい疲労感とともに、飛騨川のせせらぎが、BGMのように私たちの間の静寂を優しく埋めてくれていた。

湯煙に溶ける、個々の静寂

純生貸切温泉に浸かったとき、肌に触れたお湯は、驚くほど滑らかだった。アルカリ性の単純温泉が持つ、あの独特のぬるぬるとした質感。それは、まるで皮膚の表面に薄いヴェールを纏ったような感覚で、指先からゆっくりと強張っていた筋肉がほどけていくのがわかった。湯気で視界が白くぼやけ、隣にいる君の顔さえも輪郭を失っていく。けれど、水の中で触れ合う足先から伝わる温度だけは、紛れもなく本物だった。

私たちは、同じ湯船に浸かりながら、それぞれ別の方向を向いていた。君は天井の木組みを眺め、私はお湯の表面に浮かぶ小さな泡を追いかけていた。同じ空間にいて、同じ温度に包まれているけれど、心はそれぞれ自分の静寂の中に潜っている。けれど、その孤独は決して寂しいものではなかった。むしろ、お互いの孤独を尊重し合える距離にいることが、何よりも贅沢に感じられた。誰にも邪魔されない、ただお湯の音だけが響く時間。肌が柔らかくなり、心まで一緒に柔らかくなっていく。もしかすると、愛するということは、相手を完全に理解することではなく、相手が抱えている静寂を、そのまま隣で受け入れることなのかもしれない。お風呂から上がり、浴衣の袖に触れる肌が、温泉の効果でしっとりと吸い付く。その心地よさに、私たちはただ、小さく頷き合った。

夜の飛騨川に、街の灯りが宝石のようにひとつ、またひとつと灯っていた。

  • 飛騨川のせせらぎを聴きながら、テラス席で本場のドイツビールに酔いしれる時間を。
  • 純生貸切温泉の滑らかな湯に身を任せ、心身ともに解きほぐされる至福のひとときを。