← 戻る 元湯 環翠楼

廊下の角を曲がると、誰かの笑い声が追いかけてきた

廊下の角を曲がると、誰かの笑い声が追いかけてきた

記憶の隙間に滑り込んだ、予想外の5つの断片

迷宮のような廊下と、大人のくだらない賭け
雨を含んだ古い杉の濃厚な香りが、鼻の奥に心地よく残っている。琥珀色の灯りが揺れる元湯 環翠楼の廊下は、どこまで行っても似た景色が続き、「どっちが先に部屋に着くか」という、大人のすることとは思えない賭けを始めた。「こっちじゃないか?」と笑い合いながら角を曲がるたび、迷宮の深みに嵌まっていく。結果的に二人とも道に迷い、突き当たりで呆然と立ち尽くしたけれど、そのとき聞こえてきた他のお客さんの静かな足音に、自分たちの騒がしさが浮き彫りになって、なんだか可笑しくてたまらなくなった。

「湯番」の職人が調える、肌に吸い付く至福の湯
貸切露天風呂付き客室に身を委ね、指先から伝わるぬるりと滑らかなアルカリ質の質感に驚く。温度を完璧に管理する「湯番」という職人がいると聞き、私たちはその精度に挑むように、わざと熱い湯に浸かって誰が一番先にギブアップするかを競い合った。「あつい、けど止まらない」と、皮膚がじりじりと熱くなる感覚の中で、ふと、100年前の人たちも同じ温度に心地よさを感じていたのかもしれないという、時空を超えた共鳴のような感覚に包まれた。

神代杉の静寂と、品格を忘れた美食の争奪戦
千年以上眠っていたという神代杉の、深く、湿った森のような香りに包まれるダイニング。格式高い懐石料理を前にして、「今日は大人の振る舞いをしよう」と密かに誓い合ったはずなのに、結局は最後の一切れの地魚を巡って、子供のように言い争い始めた。「最後の一口は譲らないからね」という不格好なやり取り。静まり返った空間に、私たちの笑い声が波紋のように広がっていくのが分かり、心地よい気恥ずかしさが胸を満たした。

足裏に伝わる、大正時代の呼吸と振動
裸足で踏みしめた廊下の木材が、わずかにしなり、低い音を立てる。国登録有形文化財でもあるこの大正時代の木造高層建築は、歩くたびに建物全体がゆっくりと呼吸しているような、奇妙な振動を足裏に伝えてくる。自分たちが今、歴史という名の巨大な生き物の背中の上に乗っているような感覚に陥り、「今の悩みなんて、この木の年輪に比べれば小さな粒のようなものだ」と、不思議と心が軽くなるのを感じた。

銀色のススキと、不意に訪れた心地よい沈黙
夜風に揺れるススキが、サワサワと乾いた音を立てている。9月の箱根の夜、冴えわたる月を見上げながら、私たちはいつものように誰かの失敗談を肴に笑い合っていたが、ある瞬間、ふっと言葉が途切れた。冷ややかな夜気と、遠くで鳴く虫の声。心地よい静寂が、誰の口からも言葉が出ない時間を正当化してくれて、ただ一緒に夜の空気を吸っているだけで十分だという、贅沢な諦めのような充足感に浸った。

これらの瞬間が重なってできたもの

この宿の木材が、長い年月をかけて空気に触れ、深い褐色へと酸化していったように、私たちの関係もまた、共有した数々の失敗やくだらない言い争いによって、ある種の「古色」を帯びてきたのかもしれない。磨き上げられた新品の友情よりも、少し欠けていて、でも触れると温かい、そんな質感。元湯 環翠楼という静謐な容器に、私たちのノイズを注ぎ込んだとき、それは不協和音ではなく、心地よい共鳴に変わっていた。正解を求める旅ではなく、ただ不調和を愉しむ時間。それが、この場所が私たちにくれた一番の贈り物だった。

朝の光が差し込む縁側で、冷めたお茶を飲みながら、私たちは次の目的地を決めずにただ座っていた。

  • 飲泉用のボトルを持参して、ここのお湯を料理に使うという通な遊びに挑戦してみてほしい
  • 廊下で滑らないよう、あえて少しグリップのある靴下を履いていくことをおすすめする