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地図を閉じたあと、鼻先に触れた春の気配

地図を閉じたあと、鼻先に触れた春の気配

濡れたアスファルトと、不確かな地図の行方

3月の函館は、まだ冬のしっぽを強く掴んでいた。湯の川駅に降り立った瞬間、鼻腔を突いたのは、潮気を含んだ鋭く冷たい空気。僕たちは「誰が一番正確にホテルまで辿り着けるか」という、大人の遊びのような賭けを始めた。濡れたアスファルトを転がるスーツケースのゴロゴロという単調なリズムが、誰かの笑い声や、方向を間違えた者への鋭いツッコミに塗り替えられていく。「こっちだって!」と声を上げるナビゲーターと、道端の景色に心を奪われ、いつの間にか列から遅れる者。目的地に辿り着くことよりも、この不確かな道中で誰が一番先に迷子になるかを見守る時間こそが、旅の心地よい序曲だった。足元の冷たさが靴底を通り抜け、心地よい緊張感として身体に染み込んでいく。

湯気に溶ける時間と、猿たちの静寂

ホテルへ向かう途中でふと足を止めたのは、函館市熱帯植物園だった。そこで出会ったのは、温泉に浸かって目を細める猿たちの、あまりに人間臭い静寂。立ち上る白い湯気に包まれ、ぼーっとした表情で春を待つ彼らを見ていると、効率的に目的地を目指していた自分たちが、なんだか滑稽に思えてきた。「今年の桜は早いらしいよ」「いや、この寒さじゃまだ無理だ」と、スマホの開花予想を巡って始まった不毛で贅沢な議論。予報という名の正解と、肌を刺す冷たい空気という現実。そのあいだに広がる、心地よいラグのような空白の時間。正解なんてどうでもいい。ただ、この不確かな期待感を共有しながら歩くことこそが、旅の正体なのだと感じた。歩くたびに、冬の重いコートが少しだけ軽く感じられたのは、きっと気のせいではないはずだ。

境界線を越えて、心地よい喧騒のなかへ

イマジン ホテル&リゾート函館 / Imagine Hotel & Resort Hakodateの重厚なドアを開けた瞬間、外の冷気を忘れさせる柔らかな温もりが、凍えた肌を優しく包み込んだ。案内された「ソレイユ」の部屋に入った途端、僕たちは誰がどのベッドを占領するかという、静かだけれど激しい陣取り合戦を開始した。バルコニーに一番近い特等席を勝ち取ろうと、誰かがダイブするようにベッドに飛び込み、その弾力に驚いて声を上げる。そんなくだらない瞬間こそが、記憶に深く刻まれる旅のハイライトになる。バルコニーに出ると、そこには3月の海が広がっていた。青というよりは、深い静寂を湛えた灰色が混ざり合う色。その境界線を見つめていると、世界の端っこに辿り着いたような不思議な錯覚に陥る。ただ単に風が強くて髪がめちゃくちゃに乱れただけだったけれど、それさえも笑い話になる。

夕食のバイキングでは、地元の海の幸が贅沢に並ぶテーブルを囲み、今日一日の迷走を笑い合った。口いっぱいに広がる帆立の甘みと、温かい料理から立ち上がる芳醇な湯気。それらが混ざり合い、身体の芯から緊張がほどけていくのがわかった。その後、誰が言い出したのか、館内のゲームルームにある「ファミコン道場」へ集まった。最新のリゾートホテルという洗練された空間で、あえて粗いドット絵の世界に熱中する。ボタンを叩く乾いた音と、勝ち負けにこだわる大人の子供のような騒ぎ声。その不調和こそが、僕たちには一番しっくりきた。最後は展望露天風呂へ。冷たい夜風に晒されながら、熱い湯に身を沈める。皮膚がじりじりと熱くなる感覚と、頭を撫でる氷のような冷気。その鮮烈なコントラストが、今日という一日の記憶を、消えない印のように心に定着させてくれた。お湯から上がったあと、肌に触れるタオルの心地よい厚みを感じながら、僕たちは明日もまた、適当に迷子になろうと決めた。

バルコニーの椅子に深く身を沈め、潮風に混じるかすかな春の気配を待っていた。

  • 湯の川温泉の街歩きは、地図を閉じ、鼻をくすぐる潮風の方向に身を任せてみるのが正解。
  • ホテル内のゲームルームで、あえてアナログな勝負に時間を使い切る贅沢を味わってほしい。