迷い込むことさえ贅沢な、五月のプロローグ
函館駅のホームに降り立った瞬間、肺の奥まで入り込んできたのは、少しだけ冷たくて、潮の香りが混じった五月の空気だった。右の車輪だけが不規則なリズムを刻むスーツケースの音が、アスファルトを叩き、今の私たちの旅の旋律になる。誰がナビゲートするかで揉めていたけれど、結局は「一番自信があるやつ」が先頭を歩き出した。けれど、その根拠のない自信というやつは、駅を出て三分で方向感覚を喪失したみたいだ。私たちは密かに賭けをしていた。この旅で誰が一番最初に道に迷うか。結果的に、私たちは全員で迷うことになった。でも、それが正解だったのかもしれない。予定通りに点と点を結ぶだけの旅なんて、ただの確認作業に過ぎない。「あっちじゃない?」「いや、地図ではこっちだって」。そんな不毛な言い合いの隙間に流れる、心地よくて少しだけ騒がしい沈黙。足元の石畳が、歩くたびに小さな振動となって足首に伝わってくる。その不自由さが、かえって自由であるように感じられたのは、きっと隣にいる連中の適当な笑い声が、冷たい風を温めてくれていたからだろう。
潮風と藤の花、そして心地よい回り道
ベイエリアへと向かう道すがら、ふと鼻をくすぐったのは、甘くて少しだけ重い藤の花の香りだった。五月の函館は、街全体が淡い緑に塗り替えられていく途中にあって、視界に入るすべてが、まだ完全な形を成していない、もどかしい美しさを纏っていた。誰かがふらっと路地裏に逸れた。そこには、観光ガイドには絶対に乗っていないような、錆びついた自動販売機が一台だけぽつんと立っていた。私たちはそこで足を止め、誰も飲んだことがないような奇妙な名前の飲み物を買い、それを分け合って飲んだ。舌の上に広がる、得体の知れない甘さと微かな苦味。本当は、もっと効率的に観光スポットを回るべきだったのかもしれない。けれど、指先に触れる冷たいアルミ缶の温度や、不意に吹き抜けた風に舞う白い花びらのような、名前のない瞬間のほうが、ずっと記憶に深く刻まれる気がする。先頭を歩く者と、最後尾でぼーっとしている者の距離。その数メートルの空白に、私たちの遠慮のない関係性が詰まっていた。誰かが転びそうになり、誰かがそれを笑い、また誰かが呆れて溜息をつく。そんな不器用なリズムで歩いていると、いつの間にか視界が開けて、目の前にきらきらと輝く港の景色が広がっていた。
裸足で触れる温度と、いくらの海に溺れる朝
函館国際ホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間、外の冷気を追い出すような、柔らかい温もりに包まれた。チェックインを済ませて部屋に入ると、まず私たちがしたのは、誰が窓側の特等席を確保するかという、静かだけれど激しい陣取り合戦だった。結局はジャンケンで決まったけれど、ベッドに身を投げ出したとき、シーツのパリッとした質感と、かすかな洗剤の香りが、旅の緊張まで心地よく解きほぐしていく。窓の外には、港町の静かな夜が降り始めていた。
でも、この旅の本当のハイライトは、函館国際ホテルの最上階にある天然温泉展望大浴場だった。お湯に浸かった瞬間、皮膚の境界線が消えて、自分がただの熱い塊になったような感覚。湯気越しに眺める函館の夜景は、宝石をぶちまけたみたいに不揃いで、どこか切ない。隣で「最高だな」と呟く友人の声が、水面に波紋のように広がっていく。その心地よい熱に身を任せていると、日中の迷走さえも必要な過程だったのだと思えてきた。
そして翌朝。私たちは名物の朝食バイキングという名の戦場に赴いた。目の前に広がるいくらの海。それを贅沢に、いいえ、過剰なほどにご飯に盛り付ける。口の中で弾ける粒の一つひとつが、北海道という土地の記憶を運んでくる。隣の皿に盛られた海鮮丼を見て「盛りすぎだろ」と笑い合いながら、私たちは誰よりも多くのいくらを頬張った。お腹がいっぱいになると、不思議と、旅の終わりに対する不安が消えていた。ただ、この心地よい満腹感と、隣にいる連中の騒がしさを、もう少しだけここに留めておきたいと思った。
窓の外では、五月の陽光が港の水を細かく砕いて、銀色の鱗のように光っていた。
- 朝食のいくら盛りは、盛り付けの美学を捨てて「量」に全振りするのが正解。
- 展望温泉で夜景に浸る前に、冷たい飲み物で喉を潤すと温度差がより鮮明に感じられる。