真夜中の共犯者と、禁断のコンビニ袋
指先に食い込む、コンビニ袋の細いビニールの感触。5月の伊東の夜は、しっとりと湿り気を帯びていて、どこか遠くから藤の花の甘い香りが夜風に運ばれてくる。本当は、もう十分すぎるほど満たされていたはずだ。淘心庵 米屋 / Toushinan Komeyaで出された、あの完璧な会席料理。器の温度から盛り付けの余白まで計算し尽くされた、静謐で贅沢な食事。けれど、部屋に戻って浴衣の裾を気にしながら畳の上に寝転がった瞬間、私たちは同時に気づいた。お腹が空いているのではない。この完璧に整えられた空間の中で、あえて何か「正しくないこと」をしたくなっただけなのだと。
誰が言い出したのかは、もう記憶の彼方にある。ただ、一人が「ちょっとコンビニまで」と小さく呟いて立ち上がり、気づけば三人で夜の道を歩いていた。南伊東駅の方へと向かう道すがら、街灯に照らされた新緑の葉が、不自然なほど鮮やかな蛍光色に光っていた。私たちは、この洗練された料亭旅館の静寂に、あえて安っぽいプラスチックのパッケージを持ち込むという、小さな共犯関係を結んだ。宿に戻ったとき、廊下の静寂がいつもより深く、鋭く感じられたのは、きっと手に持っていたポテトチップスの袋が、呼吸をするたびにガサガサと騒がしく鳴っていたからだろう。
ジャンクフードが溶かす、心の境界線
「ねえ、信じられないと思うけど、私、さっきの懐石料理のあとにこのポテトチップスを一番楽しみにしてた気がする」
畳の上に、色とりどりの派手な袋が散らばる。高級な和室の清々しい香りと、コンビニの揚げ物の油っぽい匂いが混ざり合う、なんとも言い難いカオスな空間。私たちは、わざとらしく声を潜めて話し始めた。まるで、この部屋の静寂に怒られるのを恐れている子供のように。
「だってさ、今日のバラ園、あれ誇張じゃなくて完全に迷路だったよね。私たち、絶対に向こうの山まで行っちゃってたと思う。誰が地図を見る担当だったっけ」
「あー、それはもう決定的に私のミス。でも、あの迷ったおかげで、誰もいない小道に垂れ下がっていた藤の花を見つけたわけでしょ。結果的に勝ちじゃない?」
「勝ちっていうか、ただの方向音痴。まあいいけど。それより、この期間限定のグミ、味が謎すぎる。これ、本当に美味しいと思って売ってるのかな」
私たちは、互いのセンスに軽口を叩き合いながら、口いっぱいにジャンクフードを詰め込んだ。ここでは誰も私たちに「行儀よくしなさい」なんて言わない。この贅沢な空間でわざとだらしなく過ごすことが、何よりも最高の贅沢に感じられた。ベッドと布団が共存する和洋室の不思議なレイアウトに、誰がどこで寝るかで賭けをしたり、明日起きられたらどこへ行くかという、実現可能性の低い計画を立てたり。会話はどこへ向かうのか分からず、ただ夜の深さだけが、心地よい重さとなって体にのしかかっていた。
空っぽの袋と、満たされた静寂
袋の中身が空になり、会話の速度も自然と落ちていった。最後の一片を分け合ったあと、私たちはしばらくの間、何も話さずに天井を見上げていた。耳に届くのは、遠くで鳴る水の音と、自分たちの穏やかな呼吸の音だけ。半露天風呂から漏れてくる温かな湯気の匂いが、部屋の隅々までゆっくりと浸透してくる。もしかすると、私たちはこの旅で、絶景を見たかったのではなく、こういう「何でもない時間」を共有したかっただけなのかもしれない。
畳の冷たさが、浴衣越しにじんわりと伝わってくる。淘心庵 米屋 / Toushinan Komeyaという完璧に調律された空間に、自分たちの不完全な笑い声と、コンビニのゴミが散らばっている。でも、その乱雑さが、この場所を「誰かが管理しているホテル」から「私たちの居場所」に変えてくれた気がした。欠けている部分があるからこそ、そこに誰かが入り込む余地が生まれる。空いたスペースがあるからこそ、思い出という名の不格好な何かが、そこに居座ることができるのだと思う。
私たちは、ゆっくりと体を起こし、散らばった袋を片付け始めた。けれど、心の中にはまだ、あのガサガサいう音と、くだらない言い争いの残響が、心地よい周波数のように鳴り響いていた。
指先に残った塩気と、窓の外で静かに揺れる竹林の影。
- 季節限定のフレーバーポテトチップス。贅沢な和室で味わう背徳感が最高の調味料になる
- 地元のコンビニでだけ売っている、少し不思議な味の地酒ゼリー。夜の静寂にちょうどいい甘さ