← 戻る 定山渓第一寶亭留 翠山亭

濡れたウールの匂いと、湯気の向こうの笑い声

濡れたウールの匂いと、湯気の向こうの笑い声

凍てつく空気と、くだらない賭け事

「いい? 誰が一番先に『あつっ!』って叫んだら、明日の朝食の温泉たまご、全部没収な」
「はあ? 誰がそんなルール決めたよ。っていうか、お前の顔、もう寒さで真っ赤じゃん。今の時点で完敗でしょ」
「うるさいな! これは照れてるだけだって。それより、あの露天風呂まで誰が一番早く辿り着くか、賭けない?」
「無理。外気マイナス3度だよ? 走ったら一瞬で凍結して、そのまま芸術的な彫刻になる自信あるわ」
「あはは! 確かに。じゃあ、とりあえず誰が一番先に滑って転ぶかにしようか」
「最低すぎるだろ。……でも、乗った」
冷え切った空気の中で、互いの意地と笑い声だけが白く弾けていた。

湯気に溶ける境界線と、静寂の書庫

玄関に重い冬コートを投げ出したとき、鈍い音がした。濡れたウールの重たい匂いがふわりと上がり、それと同時に、肌を刺していた鋭い冷気が、しっとりとした温もりに塗り替えられる。定山渓第一寶亭留 翠山亭に足を踏み入れた瞬間、肺の奥までじわりと温められる感覚があった。足裏に触れる畳の感触は驚くほど柔らかく、歩くたびに心地よい抵抗が身体を緩めていく。

特に心を奪われたのは、館内にある「風呂屋書店」だった。お風呂上がりの火照った肌に、乾燥した古い紙の匂いが心地よく絡みつく。約2500冊の本が静かに並ぶその空間は、立ち上る湯気と深い静寂が絶妙なバランスで共存しており、まるで誰かの記憶の断片をそっと覗き見しているような錯覚に陥る。誰に気兼ねすることもなく、ただページをめくる乾いた音だけが響く。それは、日常の喧騒の中で私たちが置き忘れていた「何もしなくていい時間」の正体だったのかもしれない。

案内された和風ベッドルームは、75平方メートルという贅沢な広さがあり、3人で過ごしていてもお互いのパーソナルスペースを侵さない絶妙な距離感があった。窓の外には1月の定山渓の谷が広がり、雪に覆われた山々が深い群青色に染まっていく。その静まり返った景色を眺めていると、定山渓精肉店から届いたという新鮮な肉の香ばしい匂いが部屋に満ちてきた。口の中でとろける脂の甘みと、地元の新鮮な野菜が持つほろ苦さが、冷え切った身体の芯からゆっくりと解きほぐしていく。ふと思い出せば、誰かがかっこいい写真を撮ろうとして、湯気でレンズが真っ白になり、結局ひどい顔の自撮りしか残らなかった。そんな、どうでもいい失敗こそが、この旅を一番鮮やかに彩っている気がしてならない。

深夜二時、心だけが裸になる時間

「なあ、ぶっちゃけ、今の仕事このままでいいのかなって思うことない?」
「あるよ。というか、毎日思ってる。でも、どうすればいいのかは全然分からないし」
「いいんじゃない? 分からないままでも。なんか、答えが出ないままここにいて、一緒に温泉に入ってる今の状況が、一番正解に近い気がするし」
「……ふーん。まあ、お前のそういう適当なところ、嫌いじゃないけど」
「でしょ。不安っていうのは、きっと新しい方向を指してるコンパスみたいなもんだよ。怖いって思う方向に行けば、何か面白い答えがあるかもしれないし」
「お前、急にいいこと言うな。そういうところ、本当に腹立つわ」
「あはは、まあそう言って。とりあえず、もう一回だけ貸切風呂行ってこない? 今度は誰が叫ぶかじゃなくて、誰が一番長く潜れるかで賭けようぜ」
消灯後の薄暗い部屋で、昼間の喧騒が嘘のように、言葉はゆっくりと、そして深く心に染み込んでいった。

湯上がりに冷たい水を飲み、布団の中で足先を温め合う夜の静寂。

  • 貸切風呂を予約して、誰にも邪魔されずに「誰が一番情けない顔で湯船に浸かれるか」を競い合ってみてほしい。
  • 風呂屋書店で直感だけで一冊の本を選び、それを和風ベッドルームでゆっくりと読み耽る贅沢な時間を過ごすこと。