「雨の音、なんだか水の中にいるみたいだね」
「雨の音、なんだか水の中にいるみたいだね」
隣で君が、小さく呟いた。私は窓の外、白く煙る河口湖を眺めて、「そうかもしれない」とだけ答える。湖のホテルに到着して、まだ十分も経っていない。濡れた傘から滴る水滴が、ロビーの磨き上げられた床に小さな円を描いていた。雨の匂いと、かすかなお香の香りが混じり合い、心地よい静寂が私たちを包み込む。私たちはただ、そこにいた。言葉を埋める必要なんてなくて、ただ雨の周波数に耳を澄ませていた。
移ろう色彩と、静寂に溶ける呼吸
靴の底がわずかに湿り、外へ踏み出すと、ひんやりとした空気が肺の奥まで洗う。道沿いに咲く紫陽花が、雨の重みに耐えかねたように頭を垂れていた。土の酸度によって青から紫へ、あるいは淡いピンクへと色を変えるその花は、まるで私たちの関係に似ている気がする。相手の温度や、その時の気分という名の土壌によって、見え方が少しずつ変わっていく。正解があるわけではなくて、ただ今の色が、その時の私たちにとっての真実なのだ。
そんな思考を遮るように、私は自分のスーツケースのキャスターに足を引っ掛け、派手によろけた。君は笑わなかったけれど、口角がわずかに上がっていた。その小さな揺らぎが、張り詰めていた空気をふわりと緩めてくれる。
部屋に戻り、ベッドに体を沈めると、リネンの冷たさと柔らかさが肌に馴染んだ。和風のしつらえが心地よい空間に、雨の音が低く、心地よく反響している。午前六時。カーテンの隙間から差し込む光は、深い青色をしていた。窓の外には、富士山が幽霊のようにぼんやりと佇んでいる。完璧な視界ではないけれど、だからこそ、そこに「在る」ということの確かさが、静かに胸に響いた。
夜、スカイバーでグラスを傾けたとき、氷がカランと鳴った。高い天井と開放的な空間に、その音が静寂という名の波紋を広げる。眼下には夜の河口湖が静まり返り、遠くの街灯が宝石のように散らばっていた。グラスの結露が指先に冷たく触れる。私たちは、お互いのことをまだ全部は知らないし、これからも分からないことがたくさんあるだろう。けれど、それは不便なことではなくて、むしろ心地よい空白なのだと思う。
土の下でゆっくりと根を広げ、目に見えないところで時間をかけて準備をする種のように。私たちの時間も、急がなくていい。ただ、この雨が止むまで、あるいはまた降り始めるまで、同じリズムで呼吸をしていればいい。
朝食に添えられていた地元の野菜の、かすかな苦味。それが、今の私の心にちょうどよく馴染んだ。贅沢という言葉では片付けられない、名前のない充足感がそこにあった。
君の指先が、私の手に触れる。その温度が、ゆっくりと伝わってくる。私たちは、ただ一緒に、雨の終わりの気配を待っていた。
指先でなぞった窓ガラスに、小さな雫がひとつ、ゆっくりと滑り落ちた。
- 雨が上がった瞬間に、二人で湖のほとりをあてもなく歩いてみて。
- スカイバーで、あえて何も話さずに、流れる雲の形だけを数えてみて。