← 戻る 大江戸温泉物語Premium 鬼怒川観光ホテル

ぬるくなったお茶と、誰にも言えない冗談

深夜二時、空腹という名の共犯者

指先に触れるホテルのカードキーが、驚くほど冷たかった。三月の黒部は、まだ冬の記憶を強く抱きしめており、宇奈月温泉駅からホテルまで歩くわずか五分間、肺の奥まで入り込む凍てつく空気に、私たちは誰が一番先に「寒い」と口にするか、密かに賭けをしていた。結果、全員が同時に震えていたから、勝者は誰もいなかったけれど。

大江戸温泉物語Premium 鬼怒川観光ホテルにチェックインし、硫黄の香りがかすかに漂う温泉に身を委ね、豪華なバイキングで胃袋を限界まで満たしたはずだった。なのに、深夜二時。露天風呂付き部屋の静寂が、ふと「何か足りない」という奇妙な空腹感を呼び起こす。誰が言い出したのかはもう覚えていない。ただ、誰か一人が「コンビニ行かない?」と呟いた瞬間、私たちは互いの顔を見て、同時に深く頷いた。パジャマの上に適当な上着を羽織り、夜の街へ滑り出す。コンビニの自動ドアが開く時の、あの乾いた電子音。レジ袋の中でカサカサと踊るお菓子の音。私たちは、わざと必要ないくらい大量のスナックと、地元の飲み物を買い込んだ。まるで明日にはこの街から消えてしまうかのような、根拠のない高揚感に突き動かされて。

畳の上で繰り広げられる、贅沢な無駄話

「ねえ、さっきのバイキングのブラックラーメン、あれ本当に黒かったよね。というか、あれを『食事』と呼んでいいのか、それとも『体験』と呼ぶべきか、今でも議論の余地があると思う」

和室の畳の上に直接広げたコンビニ袋から、ポテトチップスを口に放り込みながら、友人が真顔で言った。私は、ぬるくなったお茶をすすりながら、適当に相槌を打つ。畳のい草の香りが、深夜の密室に心地よく溶け込んでいた。

「体験でいいんじゃない? そもそも、私たちはそういう『正解のないこと』に時間を使うためにここに来たんだし。それより、桜の開花予想見た? 誰か一人が『もう咲いてる』って言い出して、実際に行ったら蕾すらなくて絶望する展開、私たちがやりそうで怖くない?」

「あはは、ありそう。じゃあ賭けようよ。もし蕾しかなくて、誰一人として花びらを見つけられなかったら、帰りの駅弁は一番高いやつを奢るっていうね」

「いいよ。でも、もし満開だったら? 誇張じゃなく、奇跡的にタイミングが合っていたら?」

「その時は、お互いの黒歴史を一つずつ公開して、一緒に絶望しよう」

私たちは笑い合った。大人が集まって、こんなにも意味のない、低次元な会話に没頭できる時間は、人生の中でそう多くない。部屋の隅にある雛人形の飾りが、薄暗い照明の中で静かに私たちを見守っている気がした。誰かがチップスをこぼし、それが畳の上に小さな地図のように広がった。私たちはそれを片付けることもせず、ただその不格好な形を見て、「これ、黒部市の地図に見えない?」とくだらない冗談を言い合っていた。そんな、何の生産性もない時間が、何よりも贅沢に感じられた。

剥がれかけたシールと、心地よい空白

やがて言葉が途切れ、部屋にはエアコンの低い唸り音と、遠くで鳴る夜鳥の声だけが残った。コンビニ袋の端に、半分だけ剥がれた値札のシールが張り付いている。指先でそれを軽く触ると、粘着質の残骸がわずかに皮膚にまとわりついた。剥がしきれない記憶の破片のような、そんな感触。完璧に綺麗に剥がれることなんてないし、人生の旅だってきっと同じなのだろう。どこかに何かを置き忘れて、あるいは不要なものを引きずったまま、私たちは次の場所へ向かう。

ふと気づくと、隣で友人が心地よさそうに寝息を立て始めていた。さっきまであんなに激しく言い合っていたのに、今はただ、穏やかな呼吸の音だけが部屋を満たしている。この静寂は、孤独とは違う。お互いの存在を空気のように当たり前に受け入れている、信頼という名の空白だ。ここでは、無理に誰かになる必要はない。かっこいい旅人である必要も、完璧な友人である必要もない。ただ、ここにいるままでいい。そう、あなたも、今のままでここにいていいのだと思う。

窓の外では、三月の夜風が木々を揺らしているかもしれない。明日の朝、目が覚めた時に、世界が少しだけ違って見えているかもしれない。けれど、この深夜の、ぬるいお茶とくだらない冗談の記憶だけは、きっと消えない。それは、ガイドブックには絶対に載っていない、私たちだけの、不格好で愛おしい旅の記録なのだから。

明日の朝、誰よりも先に起きて、誰もいない廊下を歩いてみたい。

  • 富山名物の「黒い」グルメを再現した、濃厚な黒カレーパンを夜食に。
  • 宇奈月の冷えた体に染み渡る、地元の銘菓と温かいほうじ茶の組み合わせを。