なぜ、この騒がしさを連れてここへ来たのか
頬をなでる4月の風は、まだ少しだけ冷たくて、でもどこか遠くで花の香りが混ざっている。そんな空気の中を歩いて辿り着いた界 鬼怒川のロビーに足を踏み入れたとき、ふと感じたのは、ここがとても質の良い「和紙」のような場所だということだった。白く、静かで、丁寧に整えられた空間。そこに、賑やかすぎる私たち家族という「墨」がぽつりと落ちたような感覚。最初は、この静寂を壊してしまうのではないかという不安があったかもしれない。けれど、時間が経つにつれて、その墨がゆっくりと繊維に染み込んでいくように、私たちの笑い声や子供たちの足音が、この場所の風景に馴染んでいくのがわかった。旅に完璧なスケジュールなんて必要ない。むしろ、予定通りにいかないもどかしさこそが、この白い空間に描かれる一番人間らしい模様になるのではないか、という気がする。静けさを楽しむことと、静けさを心地よく乱すこと。その両方が許される場所があるというのは、親にとっても、子供にとっても、某種の解放感に近い心地よさがあるはずだ。
子供たちが一番心を奪われたのは、どんな瞬間だったか
指先に触れる土のざらりとした質感。益子焼の器を手に取ったとき、上の子は「石のお菓子みたい」と呟いた。界 鬼怒川にある「とちぎ民藝」の温もりは、大人が思うような「伝統」という堅苦しいものではなく、子供にとってはただ心地よい「手触り」として届くらしい。益子焼ナイトの最中、小さな豆皿を頭の上に乗せて、どれだけ長く耐えられるか競争し始めた二人。危なっかしい足取りで廊下を歩く姿に、隣にいたスタッフの方がふっと口角を上げたのが見えた。その瞬間、ここが「静かにしなくてはいけない場所」ではなく、「ありのままの好奇心を持っていい場所」に変わった気がした。夕食に運ばれてきた「う鴨鍋」の、二つの出汁がゆっくりと混ざり合い、黄金色に変化していく様子を、下の子はじっと見つめていた。湯気と一緒に立ち上がる鴨の滋味深い香りが鼻をくすぐり、一口食べた瞬間に、こわばっていた肩の力がふっと抜ける。美味しいものを食べるというシンプルな行為が、家族の間にある見えない緊張を溶かしていく。そういう、なんてことのない、けれど確かな触覚の記憶が、子供たちの心に深く刻まれたのかもしれない。
帰路につくとき、心に何が残っているだろうか
大浴場の大きなガラス越しに見える、4月の鬼怒川の景色。新緑が混じり始めた山々が水面に映り込み、境界線が曖昧に揺れている。お湯に浸かり、肌がじんわりと温まって、指先まで血が巡る感覚。耳に届くのは、絶え間なく流れる川のせせらぎと、時折聞こえる鳥の声だけ。子供たちが脱ぎ散らかした浴衣の山や、洗面所で水浸しにした床のことさえ、今は心地よい記憶の断片に感じる。私たちは、何かを「得ること」を目的に旅に出るけれど、実は「持っていなかったもの」に気づくことの方がずっと価値があるのかもしれない。計画通りにいかなかったこと、迷子になったこと、誰かが不機嫌になったこと。そういう「欠落」こそが、後になって一番鮮やかに思い出す旅の彩りになる。チェックアウトして外に出たとき、またあの冷たい春風が吹いたけれど、不思議と寒さは感じなかった。ただ、家族それぞれの歩幅が、来る前よりも少しだけ重なり合っているような、そんな気がした。
眠りに落ちた子供の、規則正しい呼吸の音が心地いい。
- 益子焼の豆皿ギャラリーで、子供と一緒に「直感でいいな」と思う一枚を選んでみる。それは旅の終わった後も、食卓でこの日の記憶を呼び起こすスイッチになるはず。
- 鬼怒川温泉駅からの15分ほどの道のりを、あえてゆっくり歩いてみる。道端に咲く名もなき花や、春の光の角度に気づく余裕を持つことが、この旅の本当の贅沢かもしれない。