← 戻る 鬼怒川温泉 あさや

湯気の向こう、あなたの呼吸だけが聞こえた

湯気の向こう、あなたの呼吸だけが聞こえた

「お湯、ちょうどいいかもしれないね」

「ねえ、今入らなきゃダメかな」
君が浴衣の袖を少し引っ張りながら、少しだけ不安そうに笑った。
「いいと思うよ。きっと、ちょうどいい温度のはずだから」
僕はそう答えて、廊下のひんやりとした空気を深く吸い込んだ。足袋が畳の上でかすかに擦れる、乾いた音。私たちはまだ、お互いの歩幅を合わせるのに慣れていない。でも、この静寂が心地いいと感じるのは、きっとここが鬼怒川温泉 あさやだからだ。


谷底から届く、遅い返事のような音

部屋に入ると、鹿沼組子の幾何学的な模様が、西日に照らされて畳の上に淡い影を落としていた。指先でその木肌に触れてみる。滑らかだけれど、どこか確かな手触りがある。この部屋の静けさは、ただ音が無いことではなく、外の渓谷から届く水の音が、ゆっくりと時間をかけて染み込んでくるような感覚だった。視覚的な景色よりも先に、耳に届く水の音が、ここが日常から切り離された場所であることを教えてくれる。

お風呂に浸かったとき、肌を刺すような冷気から、一気に包み込まれるような熱へと感覚が切り替わった。その激しい温度の差に、ふっと肩の力が抜ける。もしかすると、私たちは日常でずっと、自分でも気づかないうちに肩を強張らせていたのかもしれない。湯気に視界が遮られて、隣にいる君の輪郭がぼやける。けれど、その分、水の中で触れ合った指先の温度だけが、驚くほど鮮明に伝わってきた。

ふと、二人で同時に障子を開けようとして、肩がぶつかった。
「あ、ごめん」
「私も」
どちらからともなく小さく笑って、そのまま少しだけの間、沈黙が流れた。その沈黙は、気まずいものではなく、ただそこにある心地よい空白だった。完璧なタイミングで動ける関係ではないけれど、この不器用さが、今の私たちにはちょうどいい気がする。

夕食に運ばれてきた地元の山菜の、ほろ苦い味。舌の上に残るその感覚が、なんだか今の私たちの関係に似ていると感じた。正解はわからないけれど、この苦味さえも愛おしいと思える夜がある。

夜、布団に横たわると、天井の木の香りがかすかに鼻をくすぐる。窓の外では、鬼怒川のせせらぎが遠い記憶のように鳴り響いていた。10月の夜気は冷たいけれど、布団の中の密度は濃く、安心感に満ちている。私たちは、答えを急ぐのをやめた。ただ、この部屋の温度と、お互いの体温が混ざり合う時間を、ゆっくりと味わっていたいと思った。


窓の外で、一枚の紅葉がゆっくりと川に吸い込まれていった。
  • 貸切風呂で、あえて何も話さない時間を5分だけ作ってみて。
  • 朝の冷たい空気の中で、二人でゆっくりと谷を眺めるのがいいと思う。