← 戻る 采莓ホテル

指先に触れる空気は、少しだけ重たくて、湿っている。5月の苗栗は、雨が降り出す直前のあの独特な静けさに包まれていた。私たちは、大湖の街で一番高い場所にあるという采莓行館Caimei Hotelのロビーに立っていた。エレベーターが上昇するたびに、耳の奥で小さな圧力が変わり、機械的な低い唸りとともに日常のノイズが少しずつ遠のいていくのがわかる。部屋のドアを開けた瞬間、い草の乾いた香りがふわりと鼻をくすぐ

指先に触れる空気は、少しだけ重たくて、湿っている。5月の苗栗は、雨が降り出す直前のあの独特な静けさに包まれていた。私たちは、大湖の街で一番高い場所にあるという采莓行館Caimei Hotelのロビーに立っていた。エレベーターが上昇するたびに、耳の奥で小さな圧力が変わり、機械的な低い唸りとともに日常のノイズが少しずつ遠のいていくのがわかる。部屋のドアを開けた瞬間、い草の乾いた香りがふわりと鼻をくすぐった。和室の畳の上に裸足で降り立つと、ひんやりとした感触が足裏から伝わり、心地よい緊張感が走る。広々とした空間に広がる大きなガラス窓の外に目を向けると、8階という高さから見下ろす大湖の田園風景が、幾何学的に切り分けられた濃淡の緑が重なり合い、まるで丁寧に繋ぎ合わせられた巨大な緑のキルトのように広がっていた。その水平な景色を眺めていると、自分たちが今、この街の呼吸を一番高い場所から聴いているような、不思議な感覚に陥る。乳膠マットレスの適度な沈み込みに体を預けて、私たちはしばらくの間、どちらからともなく言葉を飲み込んだ。もしかしたら、私たちは正解を探して旅に出たのではなく、ただ「わからない」という状態を一緒に共有したかっただけなのかもしれない。バスルームのタイルに足を乗せたとき、その温度がちょうどよくて、ふっと肩の力が抜けた。シャワーから出るお湯の圧力が肌を叩く感覚に集中していると、心の中にあるしこりが、ゆっくりと溶け出していく気がする。ふと思い立って外に出ると、街には百合の花が咲き始めていて、甘くて少し切ない香りが湿った風に混じっていた。遠くで雷鳴が低く唸り、空の色が濃いグレーに染まっていく。私たちは傘を差さずに、あえて雨の予感の中を歩いた。途中で立ち寄った江技旧記で食べた熱いワントンの、喉を通るスープの温度が、冷え始めた指先にまでじんわりと届いた気がして、私たちは小さく笑い合った。その笑い声は、誰に聞かせるためでもない、私たちだけの秘密の周波数だった。部屋に戻り、再び畳の上に寝転がって天井を見上げていると、不意にあなたが「ここ、いいところだね」と呟いた。その言葉に、具体的な理由は何もない。ただ、そこに心地よい空白があった。私たちは、完璧な関係を築こうと頑張ることに疲れていたのかもしれない。けれど、この高い場所から見下ろす静かな街と、肌に触れるリネンの柔らかさ、そして隣にいるあなたの不規則な呼吸を聴いていると、不完全なままでいいのだと思える。もしかすると、愛とは相手を理解することではなく、理解できない部分をそのままにしておける静寂を共有することなのだろう。窓を叩き始めた雨音が、心地よいリズムを刻み始める。その音は、まるで私たちがこれから書き足していく、新しい物語の導入部のようだった。私たちは、明日になればまた日常の喧騒に戻るけれど、采莓行館Caimei Hotelの部屋で感じた、肌にまとわりつく湿度と、畳の匂い、そして二人で分かち合った「答えのない時間」だけは、消えない記憶として身体のどこかに刻まれるはずだ。夜が深まるにつれ、街の灯りが点々と灯り、暗闇の中に小さな光の粒が浮かび上がる。その光のひとつひとつに、誰かの生活があり、誰かの孤独があり、誰かの喜びがある。私たちはそれを眺めながら、ただ一緒に、静かに呼吸を合わせていた。心地よい眠りに落ちる直前、あなたの手のひらが私の手に触れた。その温度が、今の私にとって一番信頼できる答えだったという気がする。

  • 8階の客室から、大湖の田園風景が最も美しく色づく午後4時の光を眺めてみてください。
  • 江技旧記の熱いワントンを味わった後、百合の花が香る街角をあてもなく散歩するのがおすすめです。