← 戻る ホテル・ウッドランド

「地図を信じた奴が全部責任取れよ!」

「ねえ、目的地まであと十分って言ったの誰だっけ?」
「いや、グーグルマップがそう言ったんだよ!僕が嘘ついたわけじゃないだろ」
「結果的に三十分も迷ったよね。僕たちの『冒険心』が方向音痴に完敗したってことでいい?」
「言い訳がすぎるな!でも見てよ、あの白い花、最高だったじゃん」
誰かが誰かの肩を軽く叩き、車内に爆笑が巻き起こる。ドアを閉めた時のずっしりとした金属音が、旅の始まりを告げる合図のように響いた。四月のひんやりとした空気が、弾ける笑い声を淡い色に染めていく。

木の呼吸に包まれて、ほどけていく心

舞牛森度假飯店 Hotel Woodlandに足を踏み入れた瞬間、鼻をくすぐったのは、乾いた杉や檜が混じり合った、深く静かな森の匂いだった。裸足で踏みしめたフローリングの温度は、体温よりわずかに低く、それが心地よい刺激となって足裏から緊張を解いていく。チェックインを終えて部屋に入ると、窓辺に広がる緩やかな座敷のようなスペースが僕たちを待っていた。吸い込まれるようにそこに倒れ込む。長い距離を歩き、不慣れな道を辿った後のふくらはぎの筋肉が、じわじわと緩んでいく感覚。それは、ずっと握りしめていた硬い石を、そっと手放した瞬間の解放感に似ていた。

部屋の広さは、互いに遠慮せず足を伸ばして寝転んでも、まだ十分な空白が残るほどだ。その空白こそが、何よりの贅沢な休息だった。窓の外には、視界を埋め尽くすほどの深い緑と、点在する白い桐の花が広がっている。遠くから見れば雪のようだが、近くで見れば誰かがわざと散らした紙吹雪のように不揃いで、だからこそ愛おしい。ふと気づくと、コンタクトレンズを忘れていた僕は、遠くで草を食む牛の群れを、形のおかしい雲だと思い込んで数分間眺めていた。それに気づいた友人たちが腹を抱えて笑い転げる。その騒がしさが木の壁に優しく吸収され、柔らかい音へと変わっていく。バスルームのタイルのひんやりした感触と、牧場自製のハンドソープが指の間で弾けるクリーミーな香りが、旅の疲れを丁寧に洗い流してくれる。ここでは、何者かになろうとしなくていい。ただ、森の一部としてここに在るだけでいいのだと感じた。

午前二時、静寂に溶かす本音

「……本当はさ、来る前、ちょっと不安だったんだよね」
「え、なんで?」
「なんか、今のままでいいのかなって。仕事とか、人間関係とか、全部」
「わかる気がする。でも、この静けさの中にいると、まあ、なんとかなるんじゃないかって思えない?」
「うん。たぶん、そういうことなんだと思う」

部屋の明かりを落とし、外から聞こえてくる風のざわめきに耳を澄ませる。昼間の喧騒が嘘のように、ここでは言葉の重みが変わる。僕たちは、普段なら絶対に口にしないような、名前のない不安を、そっとテーブルの上に並べた。温かいミルクティーのカップから立ち上る白い湯気が、僕たちの間に淡いカーテンを作る。正解なんてなくていいし、解決しなくていい。ただ、同じ温度の空気を共有している。誰かが小さくあくびをし、また誰かが、今の話は明日になったら全部忘れてくれよと、照れくさそうに笑った。不完全なままで、ちょうどいい距離感。そんな心地よさが、この森の静寂に深く溶け込んでいた。

翌朝、テーブルに残っていたミルクティーの湯気が、春の光に溶けて消えていった。

  • 桐花季の散歩道で、あえて地図を捨て、直感だけを頼りに森の深呼吸に身を任せてみる。
  • 牧場自製のハンドソープの香りに包まれながら、旅の記憶を指先に残してゆっくりと休む。