← 戻る 南紀白浜とれとれヴィレッジ

指先で触れた、どこにもない壁の温度

5月の湿り気を帯びた風が、頬を柔らかく撫でて通り過ぎていく。ゴルフカートの座席から伝わる微かな振動が、心地よい緊張感となって身体の芯まで染み込んでいく。隣に座る君の肩が、不意に触れた。そのわずかな接触に、心臓が小さく跳ねる。この距離感が心地よいのか、それともまだ少しだけぎこちないのか、自分でも答えが出ないまま、私たちは目的地へと向かう。南紀白浜とれとれヴィレッジに足を踏み入れた瞬間、そこは日常の境界線が曖昧に溶け出す、不思議なファンタジーの世界だった。ヴィレッジ8のゲートをくぐると、そこにはまるでRPGのダンジョンに迷い込んだかのような、幻想的な洞窟状の通路がどこまでも続いていた。指先で触れた壁はひんやりと冷たく、けれどどこか懐かしい土の匂いが鼻をくすぐる。壁に描かれた色彩豊かな絵を眺めていると、日常という名の分厚く重いコートを脱ぎ捨てて、もっと軽やかな自分に戻ってもいいという、静かな許可証を授かったような心地がした。ドームハウスが点在する非日常的な景観に囲まれ、私たちはどちらからともなく歩幅を合わせる。正解のルートなんてどこにもないし、そもそも目的地に辿り着くことさえ重要ではない。ただ、この奇妙で愛おしい空間の中で、君が何に心を奪われ、どの色に目を留めるのかを観察している時間こそが、何よりも贅沢な旅の醍醐味に思えた。とれとれ市場に漂う、活気ある喧騒と潮の香り。そこで出会った焼きたてのホタテは、濃厚な磯の香りが鼻腔を突き抜け、口の中で弾ける甘みが鮮烈に広がった。舌の上に残る心地よい塩気が、「今、私は確かにここにいる」という実感を強く刻み込んでくれる。そこから白良浜まで歩く道すがら、目に飛び込んでくるのは、目に眩しいほど鮮やかな新緑の緑と、吸い込まれそうな空の青さが溶け合う景色だった。白い砂浜に足を踏み入れると、さらさらとした粒子が指の間から逃げていく。その感覚は、ずっと胸の奥で握りしめていた名もなき不安が、潮風に吹かれて少しずつほどけていく感覚に似ていた。二人で歩く砂の上には、二組の足跡が並んでいる。けれど、時々わざと歩幅をずらしてみたり、ふと立ち止まって遠くの水平線を眺めたり。完璧な調和を目指すのではなく、少しだけズレたリズムで一緒にいることが、今の私たちにはちょうどいい温度なのだと感じた。「ねえ、見て」と君が指差した水平線の向こうに、淡い光が滲んでいる。客室である2人部屋(洋室)に戻り、ふかふかの布団に身体を沈めたとき、部屋を包み込む深い静寂が心地よかった。エアコンの低い唸り音と、遠くから微かに聞こえてくる誰かの笑い声。それらが心地よいノイズとなって、私たちの境界線をゆっくりと曖昧にしていく。隣で眠る君の規則正しい呼吸音が、世界で一番信頼できるリズムとして耳に届く。何を変えたいわけでも、何かを解決したいわけでもない。ただ、この場所で、この温度で、君と一緒に不確実な明日を待っている。それだけで十分なのだと、深く息を吸い込んだとき、胸の奥に温かい灯がともった気がした。明日、目が覚めたときにはまた、いつもの日常という名の舞台に戻るのかもしれない。けれど、指先に残ったあの壁の冷たさと、隣に感じる君の確かな体温だけは、どうかずっと消えないでいてほしい。そんな願いを込めて、私はゆっくりと瞳を閉じた。

  • 白良浜の白い砂の上を、あえてゆっくりと、会話を止めて歩いてみること
  • ヴィレッジ8の迷宮のような通路で、どちらが先に「出口」を見つけるか、小さな賭けをすること