← 回到 秋保格蘭飯店

浴衣の袖が触れ合う、そのわずかな時間

「明日、バラが咲いてるかな」

「ここ、本当に静かだね」
君がそう呟いたとき、指先が私の手の甲にふわりと触れた。
「うん。音が全部、深い緑に吸い込まれていくみたい」
私たちはどちらからともなく、歩幅を合わせた。五月の秋保グランドホテルを包む空気は、しっとりと湿り気を帯びていて、肌に心地よい重みがある。遠くで磊々峡のせせらぎが微かに聞こえ、濡れた土と若葉の香りが鼻腔をくすぐった。
「明日、バラが咲いてるかな」
「わからないけど、今のこの深い緑色も、十分綺麗だと思う」
答えの出ない問いを、心地よい余白として抱えたまま、私たちはゆっくりと歩き続けた。

静寂が教える、心の速度

本館15畳和洋室の扉を開け、裸足で畳を踏みしめる。い草の青い香りがふわりと舞い、ひんやりとした植物の感触が足裏から伝わると、外の湿った熱気がゆっくりと引いていくのがわかった。浴衣に着替えると、柔らかな布の重みが肩に心地よくのしかかり、不思議と心が凪いでいく。帯を少しきつく締めすぎて、呼吸が浅くなる。けれどそのわずかな窮屈さが、今の私たちの絶妙な距離感に似ている気がして、私は小さく微笑んだ。あぁ、今の笑い方は少し不自然だったかもしれない。けれど、そんなぎこちなささえ愛おしく思えるほど、部屋に満ちる静寂は優しかった。

廊下を歩けば、古い木製の床が小さく鳴る。その音の余韻を追いかけるように、私たちは大浴場へ向かった。熱い湯に肩まで浸かると、皮膚の境界線が曖昧になり、自分がどこまでで、どこからが秋保の湯なのかわからなくなる。刺すような熱さが、じわりと芯まで温かさに変わるまでのわずかな時間。もしかすると、人と人が分かり合おうとする時間にも、これと同じラグがあるのかもしれない。すぐに答えが出る関係よりも、この温度が伝わるまでの空白を一緒に待てる関係でありたい。湯気に包まれ、視界が白く霞む中で、隣にいる君の輪郭だけが鮮明に浮かび上がっていた。

夕食のビュッフェでは、キンキンに冷えたビールのグラスに結露がつき、指先を濡らしていた。皿に盛った蟹の身は驚くほど甘く、口の中でほどけて消える。食後のブラックコーヒーは鋭く苦いけれど、その味が温泉で緩みきった意識を心地よく引き締めてくれた。私たちはあまり多くを語らなかったけれど、向かい合って座るだけで、お互いの呼吸のテンポが同期していくのがわかった。

夜、庭園に目を向けると、藤の花が紫色のカーテンのように垂れ下がっていた。風が吹き、葉がざわめく。その音が耳に届くまでに、ほんのコンマ数秒の遅延がある。私はそのラグの中に、言葉にできない感情が隠れている気がしてならない。正解を急がなくていい。ただ、この心地よい遅延を楽しみながら、君の隣にいたい。秋保グランドホテルの静寂は、何かを埋めるためのものではなく、空いたままのスペースを大切に保管してくれる場所だった。

窓の外では、夜風に揺れる新緑が深い群青色に溶け込んでいた。

  • 誰が撮ったかわからないような、なんてことのない横顔を写真に残してみて。
  • 朝、少しだけ早起きして、まだ誰もいない庭園を二人で散歩してみない?