「地図持ってるって言ったじゃん!」
「ねえ、本当にどこ?ここ、さっきも通った気がするんだけど」
「いや、絶対こっちだって!あの自販機の横を曲がればいいって言ったじゃん」
「その『いい』が曲者なんだよ。もう十分同じところを回ってるし、見てよこの寒さ。鼻水止まらないんだけど」
「いいじゃん、冒険だよ。ほら、硫黄の匂いがしてきた。温泉に近い証拠だって」
「それを世間では『迷子』って言うんだよ!っていうか、ナビ担当の君が地図データを保存してなかったのが全ての元凶だよね」
「あーもう!いいから黙ってついてきて!多分、あっちに何か見えるから!」
誰かが盛大に転びそうになり、それを別の誰かが大爆笑しながらスマートフォンで撮っている。一月の有馬の風はナイフのように鋭く頬を撫で、吐き出す息は白く濁って視界を遮る。そんな、まとまりのない、けれど心地よい喧騒が、私たちの旅の背景音楽だった。
静寂が塗りつぶす、畳の上の時間
兵衛向陽閣の門をくぐった瞬間、外の刺すような冷気がふっと消えた。代わりに鼻腔をくすぐったのは、古い木材と微かに混じるお香の匂い。それは七百年の歴史が幾層にも積み重なった、密度の高い空気だった。
案内された半露天風呂付和洋室に足を踏み入れると、裸足で触れた畳がしっとりと、けれど僅かにざらついていた。その素朴な感触が、外の世界で高ぶっていた意識をゆっくりと地面へと引き戻してくれる。窓の外には六甲山の稜線が、冬の淡い光に溶け込むように広がっていた。部屋の隅から隅まで、不自然なほどに静かだ。でも、その静寂は空っぽなのではなく、かつてここを訪れた人々が残していった記憶の残響のような、不思議な重さがあった。
そして、金泉。その赤褐色は、錆びた古い鍵か、あるいは濃く煮詰めた蜂蜜のような色をしていた。湯船に身を沈めたとき、肌に伝わってきたのは単なる温かさではなく、心地よい「温かい圧力」だった。それは液体の重い毛布にくるまれているような感覚で、頭の中で鳴り止まなかった日常の雑音が、一つひとつ丁寧に押し出されていくのが分かった。指先の先まで血が巡り、身体の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。この重みこそが、私たちが本当に求めていた安らぎだったのかもしれない。誰とも話さず、ただお湯の温度にだけ意識を向ける。そんな贅沢が、ここにはあった。
ふと気づくと、誰かが浴衣の裾をうまく捌けずに、ペンギンみたいにぎこちなく歩いている。その滑稽な姿を見て、私たちはまた、どうしようもないことで笑い合った。この場所の持つ厳かな時間と、私たちの軽薄な会話。そのコントラストが、なんだかたまらなく愛おしく感じられた。
深夜二時の、少しだけ正直な声
「ねえ、私たち、十年後もこんな感じでバカやってるかな」
「どうだろう。多分、もっとひどい迷子になってると思うけど」
「ふふっ。まあ、いいか。正解がある旅なんて、つまんないしね」
「そうかもね。っていうか、さっきの君の浴衣姿、マジで面白かったから後で送るわ」
「ちょっと!消してよ!絶対消して!」
「嫌だね。これは一生の思い出、っていうか弱点として保管しとくわ」
部屋の明かりを落として、薄暗い中で交わされる会話は、昼間よりもずっと低く、そして誠実な響きを持っていた。お互いの弱さを笑い合いながら、それでも隣に誰かがいるという安心感だけが、確かな温度を持ってそこにあった。私たちは、何かを解決するためにここに来たわけじゃない。ただ、一緒に迷子になり、一緒に笑い、一緒にこの重い湯に浸かりたかっただけなのだと思う。言葉の合間に流れる静寂さえも、今は心地よい。
窓の外では、冬の夜空に静かに湯気が昇っていた。
- 早朝六時、まだ誰もいない金泉の湯に浸かって、六甲山の目覚めを眺めてみてほしい。
- 兵衛向陽閣から有馬の街へ、あえて地図を持たずに迷い込む時間を楽しむのがおすすめ。