「本当に、こんなに早く起きなきゃいけないの?」
「本当に、こんなに早く起きなきゃいけないの?」
まだ半分眠っている君の声は、少しだけ掠れていて、心地よい。
「ただ、誰よりも先に海の色が変わる瞬間を見たかっただけ」
私はそう答えて、布団の端をぎゅっと握りしめた。九月特有の、湿り気を帯びた冷たい空気が部屋に満ちている。君の体温が逃げないように、ゆっくりと身体を寄せると、微かに石鹸のような香りがした。亀の井ホテル 熱海。この和洋室の静けさは、外の世界とは違う、濃密な時間を持っている気がする。
プリズムのように移ろう、二人の輪郭
バルコニーへ出ると、金属製の手すりが指先にひんやりと触れた。その冷たさが、意識を心地よく覚醒させる。目の前に広がる相模灘は、まだ深い紺色をしていたが、水平線の端からゆっくりと光が滲み出し始めていた。それは単なる黄金色ではなく、淡い紫から燃えるような橙色へ、そして透き通るような白へと、絶えず色を変えていく。まるで、私たちの関係がそうであるように。最初から正解の色が決まっているわけではなく、光の当たり方でその都度、違う色に見える。そんな不確かさが、今はたまらなく心地よかった。
ふと、遠くから子供たちの笑い声が聞こえてくる。ホテルにあるキッズパークの賑やかさが、心地よい生活音のように漂っている。けれど、この早朝のバルコニーだけは、私たちだけの空白地帯だ。賑やかさと静寂が、ちょうどいい比率で混ざり合っている。その境界線に立っていると、自分たちがどこに属しているのか、なんてことはどうでもよくなってくる。ただ、隣にいる君の呼吸の音が、心地よいリズムとして耳に届く。それだけで十分だった。
露天風呂付客室の湯船に浸かったとき、お湯の重みが身体を包み込んだ。それは「癒やし」という言葉では足りない、皮膚にまとわりつくような親密な温度だった。立ち上る白い湯気の中で君の輪郭がぼやけて見える。お互いに何を考えているのか、完全には分からない。けれど、その隙間があるからこそ、私たちはここにいられるのかもしれない。途中で、お揃いのルームウェアの裾を踏んで盛大に転びそうになり、二人で堪えきれずに小さく笑った。そんな、取るに足らない瞬間が、一番記憶に残る。
チェックアウトの前に、地元で買った焼き芋を分けた。口の中に広がる、濃い甘みと、少し焦げた香ばしさ。九月の風に揺れるススキの穂が、視界の端でゆっくりと波打っていた。目的地を決めずに歩いた海岸線。砂利を踏む乾いた音だけが響く道を、私たちはあえてゆっくりと歩いた。何かを解決しようとしたり、答えを出そうとしたりするのではなく、ただ、今の温度を共有すること。それが、この旅で一番大切にしたことだった気がする。私たちはまだ、お互いの周波数を合わせている途中なのだろう。けれど、その調整の時間こそが、旅の本当の意味だったのかもしれない。
波打ち際に残った二組の足跡が、静かに潮に洗われて消えていく。
- 朝五時半に起きて、バルコニーで海の色が黄金色に染まる瞬間を一緒に待ってみて。
- 予定を全部捨てて、ススキが揺れる海岸線をあてもなくゆっくり散歩してほしいな。