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畳の香りと、少しだけずれた呼吸

畳の香りと、少しだけずれた呼吸

「ねえ、本当に何も計画しなくて大丈夫だったかな」

「ねえ、本当に何も計画しなくて大丈夫だったかな」
隣を歩く君が、少しだけ不安そうに笑う。駅からの道を歩きながら、僕たちは何度も足並みを揃え直した。心地いい静寂に、時折誰かの笑い声が混じる。熱海ニューフジヤホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気の層が、火照った肌を優しく撫でた。
「たぶん、それでいいと思う。なんとなく、そういう気分だったし」
僕がそう答えると、君は小さく頷いて、僕のシャツの袖をちょこんと掴んだ。その指先の温度が、今の僕たちにとって一番確かな答えのように感じられた。

曖昧な境界線に溶ける、二人の時間

部屋に入った瞬間、い草の乾いた香りが鼻をくすぐった。裸足で踏みしめた畳の感触は、記憶の中にあるどの場所よりも柔らかく、どこか懐かしい。僕たちが案内されたのは、高層階にあるオーシャンビュールームの和室だった。窓を開けると、九月の湿り気を帯びた海風が白いカーテンをゆっくりと押し上げ、外界の喧騒をかき消して僕たちをこの部屋という小さな繭の中に閉じ込めてくれる。

視線の先には、どこまでも深い青が広がっていた。水平線が空に溶け込む境界線が、ぼんやりと滲んでいる。その曖昧さが、今の僕たちの関係に似ているな、と思った。完璧に分かり合えているわけではないけれど、同じ方向を眺めていられる。それで十分なはずなのに、なぜか胸の奥が少しだけ締め付けられる。この静かな心地よさと、拭いきれない不安が同居している感覚に、僕はただ身を任せていた。

ふと思い立って、ホテルから歩いて数分の大湯間歇泉まで足を伸ばした。道すがら、秋の気配を孕んだ空気が皮膚をかすめる。硫黄の香りが混じった潮風を深く吸い込むと、肺の奥まで熱海の街に染まっていく感覚があった。間歇泉から勢いよく吹き上がる白い湯煙を眺めながら、僕たちはどちらからともなく手を繋いだ。君の手は少し冷えていて、それを握りしめたとき、僕の体温がゆっくりと君に伝わっていくのが分かった。温度の移動。それだけが、言葉よりもずっと正直なコミュニケーションだったのかもしれない。

夕食のバイキングでは、ライブキッチンから上がるジュージューという小気味いい音が、心地よいBGMのように響いていた。お皿に盛った地元の旬の食材を口に運ぶ。甘みのある秋の味覚が舌の上でほどけるたび、心の中の緊張が少しずつ解けていく。ふと、君が口の端にソースをつけたまま、真剣な顔で月について話し始めた。その様子があまりに可笑しくて、僕は思わず小さく吹き出した。君は「何がおかしいの」と頬を膨らませたけれど、その表情を見たとき、ああ、今この瞬間にここにいていいんだ、という確信のようなものが静かに降りてきた。

夜、展望露天風呂に浸かると、お湯の温度がちょうどよく、体の芯までじわりと温まった。湯船に浸かりながら見上げた夜空には、白く細いススキのような雲が流れていた。九月の夜気は、もう夏のような重苦しさはない。けれど、完全に秋になる前の、あの名残惜しい湿度がまだ残っている。その中途半端な温度感が、僕たちをより近くに寄せ合わせた。隣で目を閉じて、静かに呼吸を整えている君の横顔を見ながら、僕はこの静寂を壊したくないと思った。言葉にしなくても伝わることはあるし、伝わらなくてもいいこともある。ただ、同じ温度の空気を吸っている。それだけで、十分な気がする。

窓の外で、夜の海が静かに呼吸を繰り返している。

  • 予定を全部白紙にして、ただ海を眺める時間を一時間だけ作ってみて。
  • 浴衣に着替えて、あえて目的もなく街の路地裏を二人で散歩してほしいな。