「水温、ちょうどいいかもね」
「ねえ、熱すぎないかな」
君が指先をそっと湯面に触れさせた。白く立ち上る湯気が、二人の視界を淡く遮っている。
「……たぶん、大丈夫だと思う」
私は答えながら、君の肩にかかった濡れた髪の、わずかな震えを見ていた。
まだ、私たちは互いの適切な距離を知らない。けれど、この温かさだけは共有できる気がして、私たちはゆっくりと、同じ湯船に身を沈めた。
静寂に溶ける、不確かな距離感
グランドメルキュール別府ベイリゾート&スパのファミリー・スペリアールームは、驚くほどに静かだった。144平方メートルという贅沢な広さは、時として残酷に、二人の間の空白を強調する。裸足で踏みしめたカーペットの厚みが、足裏から伝わる体温をゆっくりと吸い取っていく。深夜、誰かが小さく咳をすれば、その音が壁に当たって静かに跳ね返ってくる。そんな距離感に、もどかしさと、同時に言いようのない心地よさを感じていた。
屋外プールに足を浸したとき、水面が鏡のように空を映していた。9月の空気は、日差しこそ暖かいけれど、ふとした拍子にひんやりとした風が肌を撫でる。水の中では、こちらの動きが少しだけ緩やかになり、思考の速度も落ちていく。君が水切りをしようとして、不器用に水しぶきを上げたとき、私の頬に冷たい雫が飛んできた。その小さな出来事に、私たちは声を上げて笑った。大したことのない、けれど、この場所でしか起き得ない、ささやかな喜びだった。
窓の外には、別府湾が深い紺色に溶けていた。潮風が運んでくるのは、かすかな硫黄の香りと、どこか遠くで揺れている秋の気配だ。ふいに視線を移すと、庭の隅で白い穂を揺らすススキが見えた。風に押されて、しなやかに、けれど決して折れることなく、隣の穂へと寄り添うその動き。私たちの関係も、あんなふうに、時間をかけてゆっくりと重なり合えばいいのかもしれない。
お風呂上がりに、地元の梨を二人で分けた。もぎたての果実が持つ、鋭い甘さと、口の中に広がる瑞々しい温度。それを噛みしめながら、私たちはあえて、明日について話さなかった。ただ、目の前にある果実の味と、肌に残る湯の余韻だけを確かめ合っていた。
夜、ベッドに横たわると、リネンの張り詰めた感触が背中に伝わってきた。清潔な石鹸の香りが、ゆっくりと鼻腔をくすぐる。隣に君がいるけれど、あえて手は繋がない。ただ、お互いの呼吸のタイミングが、少しずつ同期していくのを感じていた。吸って、吐いて。そのリズムが重なったとき、言葉にするよりもずっと深い、静かな肯定感が胸に満ちた。
部屋の隅に、不意に現れたハローキティの柔らかなシルエットに、君が「かわいい」と小さく笑った。その拍子に、君の肩が私の肩に、ほんの一瞬だけ触れた。心臓の鼓動が、耳の奥で小さなノイズのように鳴り響く。私はわざと、少しだけ体をずらして、その緊張感を楽しんでいた。私たちはまだ、完璧な調和を求めていない。むしろ、この不確かな、ズレている感覚こそが、今の私たちにとって一番正直な心地よさなのだという気がする。
濡れた足跡が、月明かりに照らされたフローリングの上で静かに消えていく。
- 誰にも邪魔されない時間だけを、この広い部屋に置いておこうか。
- 朝の7時、まだ誰も起きていない海の色を、一緒に眺めたいね。