スーツケースのハンドルを握った瞬間、指先が凍りつくような冷たさに意識が覚醒した。濡れたアスファルトを転がるホイールの乾いた音が、冬の静まり返った街に妙に大きく響き渡る。別府駅からホテルまで歩くわずか11分の間、私たちは「誰が一番先に道を間違えるか」という、くだらない賭けに興じていた。
結局、地図を握りしめていたリーダー格のあいつが、見事な方向音痴を披露してくれた。呆れ果てたけれど、そのおかげで予定になかった路地裏の濃い湯けむりに遭遇できた。鼻をくすぐる硫黄の香りと、白く煙る視界。結果的には、最高の寄り道だったのかもしれない。
足湯カフェで出されたお団子が、指にまとわりつくほどに甘く、もちもちとしていた。口いっぱいに広がる小豆の濃厚な風味と、温かいお茶の心地よい苦味。
足先からじわじわと熱が上がり、冷え切ったふくらはぎがゆっくりと解凍されていく。この温度が体に浸透するまでのわずかなラグこそが、人間が「心地よい」と感じる正体なのだろう。隣で「熱っ!」と騒ぐ友人の笑い声が、冬の空気に溶けていった。
「お前、さっきの右折で完全に迷ってたよな」と、あいつの壊滅的なナビゲーション能力について徹底的に突っ込んだ。本人は至極真面目な顔で反論していたけれど、実際、私たちは目的地とは正反対の方向に10分も歩いていた。
もしかして、わざと時間を稼いでいたんじゃないか。そんな疑いすら愛おしくなるほど、冬の別府の空気は澄み渡っていた。互いの言い分が噛み合わないまま、歩幅を合わせて歩くリズムが、不思議と心地よかった。
今度は「誰が一番長く露天風呂に耐えられるか」という、大人のすることとは思えない賭けが始まった。MURE Beppuの屋上にある貸切露天風呂。
「月の湯」に浸かった瞬間、あまりの熱さに全員が同時に「ひぃっ」と短い悲鳴を上げた。誰が最初に脱落するか。もはや修行のような時間だったけれど、ふいに顔を上げたとき、夜空に浮かぶ月が驚くほど白く、鋭く光っていた。負けたやつが明日のコンビニ菓子を奢るというルールが、この旅を妙にエキサイティングにしていた。
部屋のドアを開けた瞬間、古材が持つ深く落ち着いた香りが鼻をくすぐった。スタンダード和モダン 紅葉-MOMIJI-の部屋に足を踏み入れると、木のぬくもりが裸足の裏からじわりと伝わってくる。
照明は琥珀色のあたたかみがあり、どこか懐かしい。豪華な設備よりも、この「古いものが大切にされてきた時間」が空間に溜まっている感覚が好きだ。ベッドに深く沈み込んだとき、旅の緊張がほどけ、自分の静かな呼吸の音だけが耳に届いた。
屋上のテラスでは、冷たい風が容赦なく頬を叩く。けれど、肩まで浸かった黄金色のお湯は、体温を強引に、そして確実に引き上げてくれた。
「極寒」と「極熱」の境界線に身を置いているとき、思考は止まり、ただ皮膚が生きていることだけを強烈に意識する。私たちは答えを探しに来たのではなく、ただこの温度差に身を任せたかっただけなのかもしれない。空の湯から眺める街の景色は、淡いグレーのヴェールに包まれていて、とても静かだった。
ふらりと立ち寄った梅まつりの会場。2月の刺すような冷気の中で、淡いピンク色の梅の花が、控えめに、でも確かに咲き誇っていた。
香りはかすかだったけれど、冬の終わりを告げる合図のように感じられた。あいつが「梅の花って、意外といい匂いするな」とポツリと呟いた。普段は絶対にそんな感傷的なことを言わないやつが、不意に見せた素直な横顔。そういう瞬間があるから、一人ではなく、このメンバーで来てよかったと思う。
チェックアウトのとき、ロビーの古材の柱にそっと触れてみた。長い年月を経て、角が取れ、滑らかになった木の表面。
私たちの旅は、この柱に刻まれた悠久の時間から見れば、ほんの一瞬の瞬きにすぎない。それでも、互いに文句を言い合い、笑い転げた記憶は、きっとこの木の香りと一緒に、心の中に深く定着したはずだ。正解のないルートを歩き、無駄な賭けに時間を使い、ただ一緒にいたこと。それだけで十分だった。
濡れた靴の先が、出発のときより少しだけ軽くなっていた。
- 足湯カフェのお団子は絶対食べて。もちもちの甘さが体に染みるよ。
- 屋上の貸切露天風呂は夜の「月の湯」が正解。月を眺めてぼーっとしてほしい。