← 回到 MURE Beppu

古材の香りと、滑った冗談の行方

古材の香りと、滑った冗談の行方

「11分」という名の迷宮と、賑やかな足音

「ねえ、11分で着くって言ったの誰? 正直に言いなさいよ」
誰かがわざとらしくため息をつき、駅からの道を歩きながら僕たちは笑い合った。3月の別府の風は鋭く、指先が痺れるほど冷たい。けれど、街に漂うかすかな硫黄の香りが、旅の始まりを告げていた。
「地図にはそう書いてあったし!君の歩幅が狭すぎるだけじゃない?」
「言い訳が上手いね。それより、誰か充電器忘れたでしょ。さっきからみんな不安そうな顔してるし」
「あ……私かも」
その瞬間、爆笑が起きた。計画を立てたリーダーの絶望した顔を肴に、僕たちは賑やかに街を歩く。とりとめない会話の断片が、春を待つ別府の街にパラパラと散らばっていく。

古材の記憶が呼吸する、静謐な隠れ家

目的地であるMURE Beppuのドアを開けた瞬間、深く落ち着いた古材の香りが鼻腔をくすぐった。それは長い年月を経て色づいた木の記憶であり、旅人を静かに包み込む抱擁のようだ。ロビーに広がる和モダンな空間は、地中でじっと春を待つ種のように、静かな生命力に満ちている。洗練されていながらも、どこか懐かしい温もりが同居するその空気感に、僕たちの高ぶっていた気持ちはゆっくりと凪いでいった。

案内された「デラックス和モダン 花梨-KARIN-」の客室に足を踏み入れると、そこには驚くほどに贅沢な「空気の量」があった。靴を脱ぎ、裸足で踏みしめた床の、ひんやりとした質感と心地よい温もりの同居。歩くたびに小さく反響する足音が、ここが外界から切り離された僕たちだけの独立した領土であることを教えてくれる。窓から差し込む柔らかな光が、木の節や年輪の陰影を鮮やかに描き出し、空間全体がひとつの生き物のように呼吸していると感じられた。

部屋に備えられた源泉掛け流しの温泉に身を沈めると、肌の表面にある緊張がじわりと溶け出していく。お湯が表面で小さく跳ねる音だけが響く静寂。それは冬の間に硬く閉じていた蕾が、内側から水分を蓄えてゆっくりとほどけていくプロセスに似ていた。旅とは、自分の中に溜まった不要な澱を捨てて、空いたスペースに新しい温度を流し込む作業なのかもしれない。

さらに屋上の貸切露天風呂に上がると、夜の冷気が鋭く頬を叩いた。けれど、肩まで浸かった湯の熱がそれを心地よいコントラストに変える。見上げた夜空には、3月の深い紺色がどこまでも広がっていた。ふと隣を見ると、友人が自撮りをしようとして、絶妙にタイミング悪くくしゃみをしていた。その不格好な顔を写真に収めたとき、僕たちはまた、どうしようもなく笑った。完璧に整えられた和の空間の中で、僕たちの不器用さだけが鮮やかに浮き上がっていた。その対比こそが、この旅の何よりの贅沢だったのかもしれない。

湯気に溶けていく、夜の独白

「……ねえ、本当は一人で来たいと思ってたでしょ」
深夜、部屋の明かりを落とし、琥珀色の間接照明だけが灯る中で誰かが呟いた。昼間の騒がしさが嘘のように、声のトーンが一段階下がっている。
「まあね。でも、君たちがうるさいから、一人で来たときより全然眠れないし」
「最高かよ。相変わらず口が悪いな」
「でもさ、このお湯の温度、本当にちょうどいいよね。なんか、全部どうでもよくなった気がする」
誰かが小さく笑い、それに合わせて別の誰かが深く頷く。深い信頼があるからこそ、あえて突き放し合う。けれど、その根底には「ここに一緒にいていい」という静かな肯定感があった。僕たちは、互いの欠落を埋め合うのではなく、それぞれの欠けた部分をそのままにして、隣に座っている。それで十分だという気がした。

3月の夜風に混じって、どこからか早咲きの梅の香りが漂っていた。

  • 足湯カフェで提供されるお団子を、誰が一番多く食べるか賭けてみるのが正解。
  • 屋上の貸切露天風呂で、あえて桜の開花予想を言い合いながら夜空を眺めてほしい。