← 回到 新鶴田飯店

湯気に溶けた、名前のない時間

湯気に溶けた、名前のない時間

指先に残る、不器用な結び目

浴衣の帯。少し硬い綿の感触が、指先に冷たく、けれど確かな質量を持って伝わってくる。プレミアム和モダンな客室を包む柔らかな間接照明の下で、私は何度も帯を締め直した。指先が冷えていて、思うように結び目が作れない。結局、少しだけ歪な形になったその結び目を、私はわざと直さなかった。その不完全さが、今の私たちの、名前のつかない距離感に似ている気がしたから。部屋の隅で低く唸る暖房の音と、障子の向こうから忍び寄る別府湾の低い風の音。その二つの周波数が静かに混ざり合う空間で、自分の呼吸だけが少しだけ速くなっていることに気づき、私は小さく息を吐いた。

湯気の向こう側で、言葉を探して

「ここ、結構熱いかもしれないね」

あなたが、展望大浴場へ続く廊下で小さく呟いた。私は、裸足で踏んだタイルのひんやりとした温度に意識を集中させながら、「いいかも」とだけ返す。私たちはまだ、お互いの正解を知らない。何を話し、何を話さないことが、この旅における正解なのか。そんな答えのない問いを抱えながら、硫黄の香りがかすかに漂う廊下を歩く。曲がり角で、ふと肩がぶつかった。

「ごめん」

「ううん」

短い言葉。けれど、その間に流れた数秒の沈黙には、心地よい重みがあった。私は、自分のコートのボタンが一つ取れていることに気づき、それを隠すように肩をすくめた。あなたはそれに気づいたのかもしれないし、気づかなかったのかもしれない。でも、その不完全さが、今の私たちにはちょうどよかった。

湿度という名の、静かな共犯関係

展望大浴場から見下ろした別府湾は、吸い込まれるような深い青色をしていた。二月の冷たい空気が、源泉掛け流しの湯から立ち上る白い湯気と激しくぶつかり合い、視界をぼんやりと滲ませる。その湿り気を帯びた空気は、まるで私たちを優しく包み込む薄い膜のようで、個々の孤独を消し去るのではなく、ただ隣にいることを許してくれる。ホテルニューツルタが長い年月をかけて積み上げてきた時間は、きっとこういう、名付けようのない瞬間の集積なのだろう。誰かがここで不安を溶かし、誰かがここで静かに誰かを想った。その記憶の層の上に、今の私たちが立っている。

私たちは、無理に歩幅を合わせようとはしなかった。ただ、同じ温度のお湯に浸かり、同じ方向に流れる湯気を眺めていた。感情に名前をつけることは、それを固定することだ。だから、私たちはあえて言葉にしなかった。ただ、水中で触れ合った指先の温度だけが、唯一の確かな情報として伝わってくる。孤独という臓器を持って生まれた私たちは、それを治療する必要はない。ただ、同じ周波数で震えている誰かが隣にいる。それだけで、世界は十分に優しいと感じられる。チェックアウトのとき、ロビーに漂っていた微かな硫黄の香りと、冬の朝の鋭い空気。その鮮やかなコントラストが、記憶の中で輪郭を持ち始めた。私たちは、少しだけ、お互いのことが分かった気がした。あるいは、分からないままでいいのだと気づいたのかもしれない。

窓の外で、別府の街がゆっくりと白く霞んでいく。

  • ホテルから徒歩1分の「喫茶ピリカ」で、静かにモーニングを過ごしてほしい
  • 3分ほど歩いたところにある「波止場神社」で、海からの風を感じてみて