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言葉が溶けて、ただ隣にいた温度

湿った風と、まだ角のある距離

午前11時、五月の湿った風が、車のドアハンドルに触れた指先にしっとりと張り付いていた。外へ一歩踏み出すと、どこからか藤の花の濃密で甘い香りが漂い、視界いっぱいに広がる新緑の眩しさに、私は思わず目を細めた。隣に立つ君と私の間には、まだ心地よくない空白が横たわっている。旅に出れば、この凝り固まった空気は何かが変わると思っていたけれど、実際にはただ場所が変わっただけだった。私たちは、お互いの機嫌を伺うように、慎重な足取りでリゾーピア別府のロビーへと足を踏み入れた。

ロビーに足を踏み入れた瞬間、外の熱気が遮断され、ひんやりとした静寂が肌を撫でた。チェックインを待つ間、私は自分の靴先だけをじっと見つめていた。ふと思う。この静けさは、誰かが意図的に作り出したものではなく、ただそこに在る空白なのだろう。今の私たちの関係は、温かい湯に投げ込まれる前の「塩の粒」に似ている気がした。それぞれが鋭い角を持っていて、互いにぶつかり合うたびに、小さく、けれど耳障りな音がしそうだった。溶け合うには、まだ温度が足りない。そんな孤独な確信が、胸の奥で小さく疼いていた。

ふと、君が私の袖を軽く引いた。薄い生地を通して伝わってきた指先の温度に、心臓がわずかに跳ねる。私たちはどちらからともなく、近くの店で別府名物の地獄蒸しを囲んだ。土の香りが色濃く残るキャベツの、かすかな苦味と自然な甘みが口いっぱいに広がる。それをゆっくりと味わっていたとき、初めて視線が真っ直ぐに合った。「美味しいね」という言葉にするほどではないけれど、ここに来てよかったという気持ちが、小さな波のように静かに揺れていた。それは明確な答えではなく、ただの予感。私たちはまだ、お互いの正解を探している途中のままでいい。そう、今はそれでいいのだと感じていた。

湯気に消える境界線と、緩い結び目

午後11時、部屋の照明を落とした後の深い静寂。窓の外では、別府の街が吐き出す白い湯気が、青白い月明かりに照らされてゆっくりと空へ昇っていた。私たちは、リゾーピア別府の温泉に身を沈めていた。肌を包み込むお湯の温度がちょうど心地よく、張り詰めていた心臓の鼓動が、少しずつ、凪のようにゆっくりになるのがわかる。心地よい水圧が肩を優しく押し下げ、身体の輪郭がじわじわとぼやけていく感覚。ここでは、自分がどこまでで、君がどこから始まるのか、その境界線さえも曖昧に溶けていく。

あのロビーで感じていた硬い塩の粒は、もうどこにもなかった。温かい湯に浸され、ゆっくりと時間をかけて、私たちは透明な液体の中に溶け込んでいった。もはや、誰が正しいかとか、どうあるべきかという問いは、この湯気の中に消えて意味をなさなくなる。ただ、隣に誰かがいて、その静かな呼吸が聞こえる。それだけで十分だと思える瞬間がある。わからないけれど、恐らくこれが、私たちが長い時間をかけて求めていた「答え」に近いものなのだろう。私たちはただ、お湯の温もりに身を任せ、沈黙さえも心地よい音楽のように聴いていた。

湯上がり、浴衣に着替えた君が、帯の結び目と格闘していた。不器用そうに、何度も結び直そうとする指先。そのもどかしげな様子に、私は思わず「ふふっ」と笑い声を漏らしてしまった。君が驚いた顔で私を見たとき、私たちは同時に、堰を切ったように笑い出した。大したことではない、なんてことない日常の断片。けれど、その笑い声が、部屋の空気を一気に柔らかく塗り替えた。帯が少し緩いままの君の姿が、なんだかとても愛おしく、深い安心感に満ちていた。完璧である必要なんてない。不完全なまま、隣にいればいい。あなたは、あなたのままでここにいていい。私も、私のままで。

お風呂上がりの火照った肌に、夜の冷たい空気と、ほのかな石鹸の香りが心地よく混ざり合う。ベッドに横たわると、シーツのひんやりとした感触が心地よく、心地よい疲労感が全身を包み込んだ。君の手が、私の手にそっと重なる。指と指の間に、もうあの頃のような空白はない。ただ、お互いの体温だけが、静かに、けれど確実にそこにあった。

月明かりが、白い湯気に溶けて消えていくのを眺めていた。