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水音と、呼吸が重なるまでの距離

「ここ、本当に私たちでいいのかな」

「ここ、本当に私たちでいいのかな」と、君が小さく呟いた。山荘 神和苑の入り口で、私たちはどちらから先に足を踏み出すべきか迷っていた。九月の別府はまだ湿り気を帯びていて、肌にまとわりつく空気が、私たちの間にある名付けようのない緊張感をそのまま形にしているみたいだった。「たぶん、大丈夫だと思う」と私は答える。確信があるわけじゃない。けれど、君の指先が私の袖口をほんの少しだけ掴んでいるのが分かって、その微かな体温こそが、今の私たちにとって唯一の正解であるような気がした。

境界線が溶けていく温度

部屋の扉を開けた瞬間、い草の清々しい香りが鼻腔をくすぐった。それは遠い記憶にある懐かしさと、日常から切り離された聖域へと足を踏み入れた高揚感を同時に運んでくる。特別室 つつじの畳に沿って歩くと、足裏に伝わる心地よい弾力と、ひんやりとした空気の層が、張り詰めていた心を静かに解きほぐしていく。私たちはあえて言葉を交わさず、それぞれの場所に荷物を置いた。この空間が持つ絶妙な距離感は、互いの気配を心地よく感じさせ、沈黙さえも贅沢な時間へと変えてくれる。

浴衣の帯に手間取り、もごもごしている君の横顔に、私はふっと小さく笑った。君もそれに気づき、照れたように視線をそらす。そんな些細な不器用さの積み重ねが、私たちの間にあった見えない壁をゆっくりと溶かしていく。もしかしたら、私たちは完璧な関係を目指す必要なんてなくて、ただこうして不器用に時間を共有していればいいのかもしれない。

特に心に刻まれたのは、あの神秘的な青いお湯だ。源泉掛け流しの湯船に身を沈めた瞬間、深い青色が視界を染め上げ、自分という境界線が曖昧に溶け出していく感覚に陥った。お湯の温度が皮膚を通して深部まで浸透し、肩に溜まった重い荷物がひとつずつ剥がれ落ちていく。隣で聞こえる君の静かな呼吸が、水音に混じって心地よく響く。ここでは、沈黙は寂しさではなく、分かち合われる安らぎだった。水面に浮かぶ小さな気泡が弾ける音さえも、今の私たちには十分な会話のように感じられた。

夕食に運ばれた佐賀関直送の魚料理は、舌の上で静かにほどけるような繊細な味わいで、塩の粒がかすかに弾けるたびに素材本来の甘みが広がった。味覚という直接的な感覚に集中していると、心の中のノイズが消え、ただ「美味しいね」という短い言葉を何度も繰り返した。それは、今この瞬間を共に生きていることを確認し合う、小さな儀式だったのかもしれない。

夜、真綿布団の心地よい重みに包まれると、まるで見えない誰かに優しく抱きしめられているような安心感に満たされた。シモンズ製マットレスの適度な沈み込みが、身体の緊張を完全に奪い去っていく。窓の外では九月の夜風に揺れるススキが、さらさらと乾いた音を立てている。その音を聞きながら、私は君の体温を隣に感じていた。まだ、すべてを分かち合えたわけではない。それでも、この空間に身を置くだけで、私たちは少しだけ、お互いの周波数に近づけた気がした。

夜空に浮かぶ月が、立ち上る湯気に溶けて白くぼやけていた。

  • 早朝、まだ街が眠っている時間に、あの青いお湯にゆっくりと浸かってみて。
  • チェックアウトの後、二人でススキが揺れる道を、あえてゆっくりと歩いてみて。