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硫黄の匂いと、誰かの笑い声が混ざった午後

硫黄の匂いと、誰かの笑い声が混ざった午後

3月の別府は、頬を刺すような冷たい風がまだ冬の名残を主張していた。誰が一番先に道に迷うかで賭けをしたけれど、結局は全員で同じ方向の看板を盲信し、全く違う方向へ行進していた。別府温泉 悠彩の宿 望海に辿り着いた瞬間、ロビーの暖房が、濡れた靴下を温めるようにじわっと足元から体温を奪い返してくれた。



部屋食のテーブルに並んだ大分和牛の、淡く、けれど確かなピンク色。箸で触れただけで体温に溶け出すような質感に、「これ、肉じゃなくてバターなんじゃないか」と誰かが言い出し、くだらない議論が始まった。関アジの刺身は、冷たい皿の上で宝石のように鋭く光り、口の中で静かにほどけていく。醤油の香りと湯気が混ざり合った空気が、和室の隅々までゆっくりと満たされていった。


屋上の露天風呂で、私たちは「つるぬる」という言葉の正体について激論を交わした。肌にまとわりつく、あの独特の滑らかな感触。誰かが「お前、石鹸を塗り忘れただけじゃないか」と鋭くツッコミを入れ、結局みんなで滑りそうになりながら、湯煙の中で大笑いした。源泉かけ流しの適温に包まれ、このまま液体になって消えてしまいたい気分だった。


窓の外に佇む別府タワー。夜の闇に浮かぶその姿が、巨大なキャンドルのように見えて、「あの中で誰が寝てるんだろうね」なんて、答えのない想像を膨らませた。正解なんてどこにもないけれど、そんな意味のない会話こそが、この旅のメインディッシュだったのかもしれない。


深夜3時。冷蔵庫の低い唸り音だけが、静まり返った部屋に等間隔で響いている。さっきまであんなに騒いでいたのが嘘のように、急に訪れた静寂が、心地よい重さを持って肩にのしかかる。隣で規則正しい寝息を立てている友人の存在が、今の自分にとって、世界で一番確かな情報だった。


裸足で踏みしめたタイルの、ひんやりとした温度。露天風呂付の客室で、ベッドからバスルームまでちょうど七歩。その短い距離を歩くたびに、日常で張り詰めていた心の皮が、一枚ずつ剥がれ落ちていく感覚があった。乾いた草のような、畳の懐かしい匂いが鼻をくすぐる。


休憩スペースで見つけたアイスクリーム。期待していなかった分、その鋭い冷たさが脳を突き抜け、一瞬で意識が覚醒した。最後の一口を誰が食べるかで、また大真面目に揉めたけれど、結局は笑いながら半分こにした。そういう些細な譲り合いが、どうしてこんなに心地よいのだろう。


温かいお湯に身を委ねていると、自分という個体の輪郭が、ゆっくりと曖昧になっていく。それはまるで、熱い水に溶け出す白い結晶のようなプロセス。互いの不器用さや、隠していた疲れが、温度の中で均一に混ざり合っていく。もう、誰が誰だか分からないくらいに、心地よく溶け合っていた。

窓の外では、春の気配を孕んだ海が、静かに呼吸をしていた。

  • 屋上の露天風呂で、わざと「つるぬる感」を競い合ってみて。
  • 部屋食の和牛を、あえて何もつけずに一口食べてみてほしい。