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湯気に溶けて、輪郭がぼやけた夜

湯気に溶けて、輪郭がぼやけた夜

もし、この部屋を予約するかどうか、まだ迷っているのなら。あるいは、隣にいる人と何を話せばいいのか分からなくて、指先だけをいじっているのなら。そんなあなたへ、この手紙を書いています。


視界の端で、街の灯りが滲みはじめる時間

指先に触れる空気は、鋭いナイフのように冷たい。別府駅から宿まで歩く6分間、私たちの間には、心地よいけれど少しだけ気まずい空白があった。スーツケースがアスファルトを叩く規則的な音だけが、今の私たちの唯一の共通言語だったのかもしれない。けれど、眺望の宿しおりの扉を開けた瞬間、その緊張感は、温かいお茶の湯気みたいにふわりとほどけた気がした。

一番驚いたのは、お湯の質感だ。肌に触れた瞬間、それは単なる液体ではなく、薄い絹の膜が全身を包み込むような、不思議な粘り気を持っていた。いわゆる「とろとろ」という感覚。私たちは、互いに鋭い角を持つ塩の結晶のように、自分の領域を守ろうとしていたけれど、この温かさの中に身を委ねると、その角がゆっくりと削られていくのが分かった。お湯の中で、君が「なんだか、お肌がツルツルになるね」と、少し照れくさそうに笑った。そのとき、君の手が不意に私の肩に触れた。その温度が、ちょうどよかった。

露天風呂から見上げる別府湾の夜景は、誰かが夜空にこぼした宝石箱みたいに、静かに、けれど確実にそこに在った。視界に入る光の粒のひとつひとつが、遠い誰かの生活の断片なのだと思うと、不思議と安心する。私たちは、無理に言葉を重ねる必要はないことに気づいた。ただ、同じ温度のお湯に浸かり、同じ夜の静寂を聴いている。それだけで、十分な会話になっていた。塩が温水に溶けていくように、私と君の境界線が、少しずつ、ゆっくりと曖昧になっていく。それは、心地よい消失だった。


枕元で、小さく呼吸を合わせる夜

部屋に戻り、バルコニーに出ると、2月の夜風が頬を撫でた。海側のお部屋から見る別府市街地の灯りは、昼間の喧騒が嘘のように穏やかで、どこか遠い国の出来事のように感じられた。私たちは、どちらからともなく肩を寄せ合った。厚いカーペットに足の指を沈めながら、深夜の静寂に耳を澄ませる。聞こえてくるのは、遠くで鳴る車の走行音と、隣にいる君の、少しだけ速い鼓動。

本当は、この旅にたくさんの期待と、それ以上の不安を抱えていた。私たちはまだ、お互いの正しいリズムを完全には分かっていないし、これからも、何度も足並みが乱れるのかもしれない。けれど、ここで過ごした時間は、答えを出すためのものではなく、ただ「分からなさ」を共有するためのものだったという気がする。君が、寝ぼけ眼でスリッパを左右逆に履こうとして、「あ、間違えた」と小さく笑った瞬間。その不器用さが、たまらなく愛おしく感じられた。完璧な旅なんて、きっと退屈だ。こういう、小さな綻びがあるからこそ、私たちはここにいられる。

高崎山の稜線が、明け方の淡い光に縁取られるまで、私たちはただ、そこにいた。何もしないことが、これほどまでに贅沢なことだなんて。自分を飾る必要もなく、ただの「私」と「君」として、この空間に溶け込んでいる。それは、人生の中で何度もあることではない、とても静かで、とても贅沢な、心のしおりを挟んだ時間だった。


湯気に包まれたあなたの横顔が、少しだけ柔らかく見えたことだけを覚えている。
  • 2月の別府は冷えるので、駅からの6分間を心地よく歩ける、お気に入りの厚手の靴下を履いていってほしい。
  • お風呂上がりには、バルコニーで夜景を眺めながら、あえて何も話さない時間を5分だけ作ってみて。