← 回到 眺望之宿 Shiori

光と音が届くまでの、空白の時間

光と音が届くまでの、空白の時間

もし、この部屋を予約するかどうか迷っているのなら。あるいは、隣にいる人と、今の距離感のままでいいのか不安に思っているのなら。八月の午後の、少しだけ湿った風が届く時間にお伝えします。旅とは何かを解決する手段ではなく、ただ、今の自分たちの輪郭を確かめるための時間なのかもしれない、ということを。

宝石箱をひっくり返した夜と、遅れて届く鼓動

手首に触れた冷たい水滴の感覚から、私の記憶は始まります。別府の街を150メートルほど見下ろす高台にある「眺望の宿しおり」の海側のお部屋に立ったとき、夜の空気は驚くほど静かでした。ふと見上げると、遠くの空に大輪の花火が咲いたのが見えました。鮮やかな色彩が夜空を塗りつぶし、その数秒後、地響きのような低い音がゆっくりと届きます。光が先に見え、音が後から追いかけてくる。そのわずかなタイムラグが、なんだか私たちの関係に似ている気がしました。「ねえ、今のは綺麗だったね」とあなたが呟いた声が、夜風に溶けて消えていく。伝えたい言葉が先に心に浮かび、それを口に出して相手に届くまでには、いつも少しだけ時間がかかる。でも、その空白があるからこそ、相手がどう受け止めるかを想像する贅沢が生まれるのかもしれません。

窓の外に広がる別府湾の深い紺青が夜の帳に溶け込んでいく様子を眺めていました。市街地の灯りが、まるで誰かがうっかり零した宝石箱のように点在していて、その遠さが心地よかった。私たちは、賑やかな祭りの喧騒の中に飛び込むのではなく、あえて少しだけ離れたこの場所で、お互いの呼吸の音を聴いていたかったのだと思います。お風呂に浸かれば、塩化物・硫酸塩泉の「とろとろ」とした質感が、肌に薄い膜を張るようにまとわりつきます。微かに漂う硫黄の香りと、心地よい湯気が視界を白く染め、強張っていた肩の力が、ゆっくりと、本当にゆっくりと抜けていく感覚。それは、言葉にするのが難しいけれど、相手にだけは分かってほしい、そんな静かな肯定感に似ていました。

畳の香りと、指先に触れた確かな温度

夜の和風庭園を歩いたとき、浴衣の生地が重なり合う「シュシュッ」という小さな音が、耳に心地よく響いていました。足湯に足を浸して、ぼんやりと高崎山の稜線を眺めていたときのことです。あなたは何も言わずに、私の指先に自分の指をそっと重ねました。夏の夜風よりもずっと確かな体温が、胸の奥をじんわりと温めるのを感じました。私たちは、お互いに完璧なパートナーになろうとして、少しだけ疲れすぎていたのかもしれません。でも、ここにある静寂は、何かを埋めなければならない空白ではなく、ただそこに在ることを許してくれる凪のような空間でした。

ふと気づくと、あなたは少し照れくさそうに笑って、「水温、ちょうどいいな」と呟きました。そのありふれた言葉が、どんなに凝った愛の言葉よりも深く心に届いた気がします。私たちは、お互いのリズムを合わせようと無理に歩幅を揃えるのではなく、それぞれが自分のペースで歩きながら、時々ふっと視線が合う。そんな不完全な調和こそが、今の私たちには必要だったのでしょう。朝方、薄いカーテンの隙間から差し込んだ光が、部屋の畳に細長い線を描いていました。い草の清々しい香りに包まれながら、私は、この場所で過ごした時間が、私たちの記憶にそっと挟まれた「しおり」のような役割を果たすだろうと感じました。またいつか、人生の途中で迷ったときにここを開けば、この温度と、この静かな納得感を思い出せるはずだから。

夜明け前の、まだ誰も起きていない青い時間より。

  • 露天風呂から別府湾の潮騒に耳を澄ませ、あえて言葉を交わさない贅沢を。
  • 地元の旬を味わう朝食の後、行き先を決めずに街へ踏み出す自由を。