← 回到 眺望之宿 Shiori

足の指先が、お湯に触れるまでの時間

足の指先が、お湯に触れるまでの時間

濡れたサンダルの底が、ぺたぺたとはじける音。下の子が足湯の縁で、わざとゆっくりと足を浸そうとしている。「見て、あわあわしてる!」と歓声を上げた瞬間、指先から伝わる熱が心地よく、小さな悲鳴のような笑い声が上がった。五月の空気はまだ少しだけひんやりしていて、頬を撫でる風が心地いい。和風庭園に咲く藤の花が、淡い紫色に揺れ、甘い香りがふわりと鼻をくすぐる。子供の視線は、ずっと足元に集まる気泡を追いかけていた。それは、真っ白な紙に落とした一滴のインクが、ゆっくりと滲んでいく瞬間に似ている。


檜の香りが、鼻腔の奥に静かに溜まっていく。眺望の宿しおりの家族風呂に満たされたかけ流しの湯は、驚くほどとろみがあった。肌にまとわりつく感覚が、まるで薄い絹の膜を張ったみたいに心地いい。肩まで深く沈み込むと、日々の喧騒で強張っていた心身の緊張が、お湯に溶け出していくのがわかった。「ふぅ……」と思わず漏れた溜息が、白い湯気に混ざって消えていく。隣でバシャバシャと水を跳ね返している上の子の気配さえ、今は遠いところの出来事のように心地よい。重力から解放されて、ただ水の温度だけが、自分の輪郭を優しく定義している。
遠くで聞こえる別府市街地の、微かな車の走行音。それとは対照的に、部屋の中で響く、襖が閉まる「スッ」という乾いた音。静寂には、いろんな質感がある。子供たちが廊下を走るドタドタという足音も、ここではどこか柔らかく、心地よいリズムとして響いた。窓を開けると、雨上がりの新緑の匂いが、濃密な緑の香りを伴って部屋の中に流れ込んでくる。音が消えたあとに残る、深い静けさ。その余白に、家族の呼吸が重なり合っていく。不揃いなリズムが、次第に一つの心地よいテンポに整っていく感覚に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
温かいお茶から立ち上る、白い湯気の柔らかな匂い。運ばれてきた懐石料理の中で、地魚の身が透き通るように美しく盛り付けられている。口に運ぶと、淡い甘みがゆっくりと舌の上に広がり、素材の純粋な味が染み渡った。山側を望むお部屋の静かな空間で、野菜の瑞々しさがそのまま届く。普段は好き嫌いの激しい子が、「これ、おいしい」と小さく呟いた。その一言で、テーブルの上の空気がふわりと緩む。味覚というものは、時に言葉よりも正確に、その場所の温度と幸福感を教えてくれる。お箸が触れ合う小さな音さえ、今は愛おしい音楽のように聞こえた。
夜の帳が下りると、窓の外に別府湾の深い藍色が静かに広がった。ガラスに額を押し当てると、ひんやりとした冷たさが伝わり、意識がはっきりと覚醒する。市街地の夜景が、まるで精密な基盤の上に散りばめられた小さな光の粒のように、宝石のように瞬いていた。光と影の境界線が、ゆっくりと混ざり合っていく。子供たちが窓辺に集まり、「あそこが僕の家だったらいいのに」と、根拠のない言い合いを始めている。その賑やかな光景を眺めていると、心の中のささくれが、夜の静寂に洗われて、静かに削られていく気がした。
子供用の浴衣が、どうしてもサイズ的に大きすぎる。袖から手が完全に見えなくなり、歩くたびに裾を踏んでよろけている。その姿が、まるで大きな白いマシュマロが一生懸命に歩いているみたいで、思わず吹き出してしまった。「見てて、大人っぽいでしょ」と、本人は至って真剣な顔で胸を張っている。綿の生地が擦れる、カサカサという小さな、乾いた音。完璧ではないけれど、その不格好さが、旅の記憶に一番深く、鮮やかに刻まれるものだ。指先で触れた生地のざらつきが、どこか懐かしく、心地よい。
布団に潜り込むと、畳のい草の香りがふわりと鼻をくすぐった。外では、五月の夜風が木々を揺らし、さらさらと心地よい音を立てている。隣で、いつの間にか寝息を立て始めた子供たちの、規則正しいリズム。さっきまでの騒がしさはどこへ行ったのか。ただ、ここに一緒にいるという絶対的な安心感だけが、心地よい重みを持って身体に伝わってくる。意識が遠のく直前、誰かが私の手を小さく、ぎゅっと握った。その小さな手の体温が、ゆっくりと心に染み込んでいく。もう、何も足す必要はない。この静寂こそが、最高の贅沢なのだと感じた。

夜の静寂に溶け込む、家族の小さな寝息。

  • お子様と一緒に、庭の足湯でゆっくりと別府湾を眺める時間を。
  • 家族風呂の檜の香りに包まれて、日常の荷物を一度だけ下ろしてみてください。