← 回到 Old England 道後山之手飯店

冷えたグラスの結露が、指先にまとわりつく夜

誰が、この夜に空腹を招いたのか

7月の松山は、街全体が巨大な蒸し器に閉じ込められたかのような、濃密な湿気に包まれていた。道後温泉特有のほのかな硫黄の香りが夜風に混じり、浴衣の帯がじりじりと肌に食い込む。歩くたびに下駄がアスファルトを叩く乾いた音が、重たい夜風に吸い込まれていく。道後温泉の喧騒を離れ、緩やかな坂を登った先に現れたのが「オールドイングランド 道後山の手ホテル」だった。その深い赤レンガの壁を目にした瞬間、僕たちは一瞬だけ、自分がどこの国に迷い込んだのか分からなくなった。日本の中にひっそりと息づく、小さなイギリスの断片。チェックインして部屋に足を踏み入れたとき、裸足に触れたウッドフロアのひんやりとした感触が、火照った肺の奥まで空気を入れ替えてくれた。けれど、祭りの高揚感と夜風の心地よさは、皮肉にも強烈な空腹という残酷な現実を連れてくる。結局、誰が言い出したのかも定かではないまま、僕たちは誘い合うようにコンビニへと走った。袋いっぱいに詰め込んだ、ジャンクで塩分が強く、およそ「英国紳士」とは程遠い品々を抱えて、僕たちは再びあの赤い壁の迷宮へと戻っていった。

揚げ鶏とアンティーク、不協和音の心地よさ

「ねえ、この部屋の雰囲気、正直やりすぎじゃない? 家具の一つひとつが、まるで博物館から密かに持ち出してきたみたいだよ」

エグゼクティヴルームの重厚なテーブルの上に、コンビニの揚げ鶏とポテトチップスが乱雑に散らばっている。ヴィクトリア朝を彷彿とさせるアンティーク調の装飾と、安っぽいプラスチックの容器。そのあまりに滑稽な対比に、僕たちは同時に吹き出した。

「いいじゃん。このギャップこそが旅の醍醐味でしょ。見てよ、この緻密な壁紙。ここでポテチを齧っている自分たちが、なんだか不法侵入者のみたいで、不思議と心地いいし」

「心地いいとか言ってるけど、君の浴衣、さっきから帯が緩んでるよ。紳士の国にいるんだから、もう少し身なりを整えたらどうかな」

「うるさいな。そもそもこのホテルに泊まっている時点で、僕たちはもう十分『特別な誰か』のふりができてるわけでしょ」

ポテトチップスの袋がガサガサと乾いた音を立て、濃い塩気が口いっぱいに広がる。琥珀色のランプが照らす部屋の中で、僕たちはキンキンに冷えたお茶を回し飲みした。グラスの表面に結露がつき、指先をじわりと濡らす。道後温泉本館の賑わいや、明日の曖昧な予定。正解のない会話が、部屋の隅々までゆっくりと満たしていく。僕たちは、お互いの欠点を突き合いながら、同時にそれを許し合っていた。そんな不完全で、贅沢な時間が、僕たちにとっての正解だった。

凪いだ時間と、溶けゆく意識

最後の一欠片まで食べ尽くし、会話がふっと途切れた。部屋に残ったのは、エアコンの低い唸りと、遠くの森から届く虫の声だけ。もしかすると、この贅沢な静寂こそが、このホテルが提供する真のホスピタリティなのかもしれない。オールドイングランド 道後山の手ホテルという空間は、まるで表面張力でかろうじて形を保っている一滴の水滴のようだ。外側の松山の熱気や、温泉街の奔流に飲み込まれそうになりながら、ここだけは静かで冷ややかな、別の時代の時間を守り抜いている。リネンのシーツに体を沈めると、心地よい重みが全身を包み込んだ。僕たちが本当に求めていたのは、豪華な設備ではなく、ただ「ここではないどこか」に、気ままな仲間と共に漂っているという感覚だったのだろう。思考がゆっくりと溶け、意識が深い場所へ沈んでいく。外の空気はまだ重いけれど、この部屋の中だけは、凪いだ海のように穏やかな温度に満ちていた。

濡れた浴衣がハンガーから静かに滴り、ランプの光が壁に長い影を落としていた。

  • 愛媛特産の柑橘系ゼリー。冷やして食べると、夜の口直しにちょうどいい。
  • 地元のコンビニで売っている、少し甘めの地酒。アンティークの家具に囲まれて飲むと、味が変わる気がする。