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指先に残った、みかんの甘い匂いと夜の温度

8月の松山の空気は、濡れたタオルのように重く、肌にまとわりつく。道後温泉駅から道後プリンスホテルまで歩くわずか5分ほどの道のりさえ、湿度をたっぷりと含んだ生暖かい風が、私たちの歩幅を自然と緩やかにさせた気がする。道端にひっそりと咲く名もなき花々の色彩や、通り過ぎる人々が纏う浴衣の擦れる衣擦れの音が、耳に心地よく届く。下駄がアスファルトを叩く乾いた音が、私たちの不揃いなリズムを刻んでいた。あなたが「暑すぎない?」と小さく呟いたとき、私は明確な答えを持っていなかったけれど、ただ隣で同じ温度の風に吹かれていることが、今の私たちにとって一番正しい距離感なのだと感じていた。ホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間、外の喧騒が遠のき、代わりに古い木材の落ち着いた香りと微かな湯気の匂いが鼻先をくすぐる。館内での「館内湯めぐり」は、まるで感情のグラデーションを辿る旅のようだった。ある湯は肌を刺すように熱く、ある湯は体温に寄り添うように穏やかで、私たちは言葉を交わさずとも、ただお湯の温度が変わるたびに、お互いの心地よさを静かに確認し合っていた。湯気で視界が白く霞む中、お湯に身を沈めると、皮膚の境界線が曖昧になり、自分がどこまでで、相手がどこから始まるのかさえ分からなくなるような心地よい錯覚に陥る。客室の清月亭に入ると、い草の香りがふわりと広がり、裸足で踏んだ畳の心地よい弾力が、旅の緊張で張り詰めていた心をゆっくりと解いていく。和洋室という空間は、二人でいるには十分すぎるほど広く、けれどその贅沢な余白があるからこそ、私たちは無理に距離を詰めようとしなくて済んだ。窓から差し込む夕暮れの琥珀色の光が、部屋の隅に長い影を落とし、その影がゆっくりと伸びていくのを眺めているだけで、時間が意味をなさなくなる。冷房で冷えた部屋の中で、厚手の掛け布団に潜り込んだとき、あなたの肩と私の肩の間にあった数センチの隙間が、とても贅沢な空白に感じられた。夜になれば、街は盆踊りのリズムに包まれる。慣れない浴衣の裾を気にしながら、人混みの中へ踏み出した。屋台から漂うソースの焦げた香ばしい匂いや、綿菓子の甘い香りが、夏の夜の湿った空気に溶け込んでいる。櫓から流れる笛の音に合わせて踊る人々の中で、私たちはひどく不器用だった。ステップが合わず、足先がぶつかり合うたびに、私たちは顔を見合わせて小さく笑った。その笑い声が、祭りの喧騒の中に溶けていく。私たちはわざとゆっくりと歩幅を合わせてみたけれど、結局はどちらかが早まり、どちらかが遅れる。そのわずかなズレこそが、今の私たちの関係そのものであり、それを笑い飛ばせることに、小さな解放感を覚えた。ホテルに戻り、洗面所で冷たい水で顔を洗ったとき、指先にほんのりと残っていたみかんの甘い匂いと、夜の静まり返った温度。それが、この旅で私たちが共有した、名前のない、けれど確かな温度だったのかもしれない。私たちはまだ、お互いの正解を模索している途中だけれど、この場所で過ごした停滞した時間こそが、今の私たちには必要だった。夜空に上がった大輪の花火は、完璧な形をしていたけれど、それよりも、あなたの瞳の中に小さく反射していた光の粒の方が、ずっと記憶に深く刻まれている。

  • 浴衣に着替えて、あえて目的もなく館内の湯めぐりをしてみること。
  • 夜のテラスで、遠くの祭りの音を聞きながら冷たい飲み物を分かち合うこと。