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浴衣の袖が障子に触れる、かすか​​な音

浴衣の袖が障子に触れる、かすか​​な音

帯の結び目と、不器用な笑い声

「ねえ、そもそも誰がこの格好で高級旅館に泊まろうなんて言い出したんだっけ」

「いや、企画したのはお前だろ!」と、誰かが吹き出しながら、ぎこちなく浴衣の帯を締め直している。もともと私たちの中に、和装の作法なんて知っている人間は一人もいなかった。結果として、全員がどこか着崩れた、少しだけ滑稽な姿でロビーに立っていた。糊のきいた綿の香りがふわりと漂う中、私たちは互いの不格好さを肴に笑い合う。

「見てよ、この歩き方。完全に迷子の小学生じゃん」

「うるさいな。この浴衣、裾が長すぎて、もう三回は躓いてるし」

「賭けてもいいけど、今夜のうちに誰かが畳に盛大にダイブするな」

私たちは互いの不器用さを笑い飛ばしながら、下呂温泉 懐石宿 水鳳園の静謐な廊下を、わざと騒々しく歩いた。まるで、この静寂という名の完璧なキャンバスに、わざと鮮やかで乱雑な絵の具をぶちまけたい衝動に駆られていたみたいに。

静寂という名の和紙に、滲んでいく時間

部屋に入った瞬間、まず指先に触れたのは、畳の少しひんやりとした、けれど確かな弾力だった。鳳蘭花の間というその空間は、私たちが想像していた「旅館」という枠を静かに超えていた。壁に目をやると、地元の米の藁が丁寧に編み込まれている。その不揃いな繊維の重なりが、外から持ち込んだ私たちの尖った緊張感を、ゆっくりと吸い取っていくような気がした。

それは、真っ白な和紙に一滴の墨を落としたときのように、境界線が曖昧になっていく感覚だ。最初は「自分たちはここにふさわしくない」という違和感が、濃い色の点として存在していた。けれど、時間が経つにつれて、その違和感は部屋の隅々まで静かに広がっていき、やがて心地よい一体感へと変わっていく。

足元に目を落とすと、御嶽山の溶岩石が配されていた。裸足で触れると、石の表面がわずかにざらつき、体温をゆっくりと奪っていく。その冷たさが、心地よく脳を覚醒させた。露天風呂付客室という贅沢な空間で、リファのシャワーヘッドから出る微細な泡が、皮膚の隙間にまで入り込んで、今日一日の歩き疲れを丁寧に洗い流してくれる。水圧の心地よい刺激が、思考のノイズを消し去ってくれた。

そして、飛騨牛茶寮 神月で出されたステーキ。それは食事というより、ある種の化学反応だった。熱い溶岩盤の上で、脂がパチパチと音を立てて弾ける。口に運んだ瞬間、緻密なサシが入った肉が、体温で瞬時に液体へと相転移する。濃厚な旨味が舌の上で溶け合い、喉を通る頃には、もう形なんて残っていない。ただ、贅沢な満足感だけが、胃のあたりにずっしりと心地よい重みとして残った。

窓の外には、下呂富士の稜線が夜の闇に溶け込んでいた。広い部屋の中で、私たちはわざわざ椅子に座らず、畳の上にだらりと体を投げ出した。車椅子の方でも気兼ねなく過ごせるように設計されたというその空間の余裕は、私たちのような、精神的に余裕のない大人たちにとっても、最高の避難所になったのかもしれない。誰に気兼ねすることもなく、ただそこに存在していい。その解放感は、何よりも贅沢な設備だった。

月明かりと、ススキと、剥き出しの本音

「……まあ、実際は、ここに来て正解だったな」

深夜、誰が言い出したのか、私たちは露天風呂のそばに集まり、夜空を見上げていた。九月の夜風は、もう秋の気配を帯びていて、肌を撫でる温度が心地よい。庭に揺れるススキが、カサカサと乾いた音を立てている。昼間の喧騒が嘘のように、私たちの声は低くなり、言葉の間に長い空白が生まれた。

「そうね。あんなに文句言ったけど、この静けさ、嫌いじゃない」

「正直、最近ずっと、誰とも喋りたくないと思ってた。でも、お前らとだったら、まあ、いいか」

「急にいい話しようとするなよ。鳥肌立ったわ」

誰かが小さく笑い、また静寂が戻ってくる。けれど、その沈黙はもう、気まずいものではなかった。ただ、お互いの存在を確認し合っているだけの、温かい空白。月明かりに照らされた友人たちの横顔が、いつもより少しだけ柔らかく見えた。私たちは、正解のない人生を適当に歩いているけれど、今夜だけは、この場所で、ありのままの自分でいられる。それだけで十分だという気がした。

月が、ゆっくりと雲の端に隠れていった。

  • 朝七時、まだ街が眠っている時間に、温泉街の冷たい空気の中を散歩すること
  • 飛騨牛茶寮 神月で、シェフが目の前で焼き上げるステーキの音に耳を澄ませること