「ここ、本当にいいところだね」
「ここ、本当にいいところだね」
君がそう呟いたとき、ロビーの大きな窓の外には、深い緑に飲み込まれそうな日本庭園が広がっていた。僕はなんとなく、足元のタイルの冷たさに意識を向けていた。
「うん。でも、旅館なのに床がタイルっていうのは、なんだか意外かも」
スペインから運ばれたというそのタイルは、古い建築の静寂の中で、不思議なほど穏やかに呼吸しているように見えた。
「ね。どこにも属していない感じがして、心地いい」
僕たちはまだ、お互いの適切な距離感を探っている最中だった。
濃い緑と湯気に溶ける、不器用な距離感
指先に触れる浴衣の綿の質感が、少しだけざらついていて、それがかえって心地よい安心感を与えてくれた。七月の下呂は、空気が水分をたっぷり含んでいて、肌にまとわりつく。その湿度が、僕たちの間にあった目に見えない壁を、じわじわと柔らかく溶かしていくようだった。
下呂温泉望川館 / BOSENKANのロビーを歩くと、足裏から伝わるタイルの硬い感触が、意識を今の瞬間に繋ぎ止めてくれる。そこから視線を上げれば、千百坪もの広さを誇る日本庭園が、濃い緑のグラデーションとなって視界を埋めていた。時折、遠くで飛騨川を渡る電車の低い走行音が響く。鉄橋を渡るその音は、静寂を切り裂くのではなく、むしろ静寂の輪郭をくっきりと描き出していた。音があるからこそ、僕たちの間に流れる沈黙が、心地よい音楽のように感じられたのかもしれない。
「露天風呂付客室 川の寮四季彩」に身を委ねれば、高いアルカリ性の湯が、指先から滑るように肌を包み込んだ。ただのお湯というよりは、薄い絹の膜を纏っているような、独特のぬるつきがある。その感覚に身を任せていると、自分の輪郭が曖昧になり、隣にいる君の体温と、お湯の温度の区別がつかなくなる瞬間があった。もしかしたら、僕たちはこういうふうに、ゆっくりと混ざり合っていけばいいのかもしれない。正解なんてないし、急ぐ必要もない。ただ、今この温度がちょうどいいということだけが、確かな事実だった。
夕食に供された朴葉味噌の香ばしい匂いが、部屋の隅々まで満ちていた。葉の上で味噌がじゅわっと音を立てて焼ける。その小さな音に耳を澄ませていると、ふと、君が帯をうまく結べずに格闘しているのが見えた。いつもは完璧に振る舞おうとする君が、指先をもたつかせている。その拍子に、少しだけ困ったような顔をした君を見て、僕は小さく笑った。君も気づいて、照れたように視線を逸らす。その瞬間、僕たちの間にあった緊張という名の湿度が、ふっと軽くなったのがわかった。
夜の庭園に灯りがともると、昼間とは違う、深い青の世界が広がっていた。星空と、ライトアップされた木々。僕たちは言葉を交わさず、ただ隣り合って歩いた。肩が触れそうになる距離で、浴衣の袖がかすかに擦れる音だけが聞こえる。完璧な関係なんて、きっとどこにもない。ただ、この不完全なリズムで一緒に歩いていることが、今の僕たちにはちょうどいい。そんな気がした。
夜の飛騨川のせせらぎが、遠くでずっと、同じリズムを刻んでいた。
- 夜明け前の静かな時間に、二人で川沿いをゆっくり散歩してみて。
- 浴衣の色を選ぶとき、あえてお互いが似合いそうな色を提案し合ってみて。