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浴衣の裾が、古い床を撫でる音

浴衣の裾が、古い床を撫でる音

タクシーの窓を少し開けると、ぬるい風と共に、雨上がりの濡れた土と深い森の匂いが入り込んできた。後部座席では次男が「温泉ってどうやって湧いてくるの?」と無邪気に問いかけ、長女が「地球の中が熱いからだよ」と、どこか大人びた口調で適当に答えている。そんな家族の賑やかな喧騒を乗せて、車は箱根塔之沢の深い緑の奥へと進んでいく。

目の前に現れたのは、空に向かって静かに、けれど力強く伸びる巨大な木の塊のような建築だった。元湯 環翠楼 / Kansuiro。大正時代からこの地に根を張り、幾重もの年輪を重ねてきた国登録有形文化財の佇まいは、単なる建物というより、街の一部として成長し続けている古木に近い気がする。

チェックインを済ませ、伝統和室の畳に荷物を放り出したとき、私たちはようやくこの場所が持つ独特の呼吸に気づいた。古い木造建築特有の、かすかに震えるような静寂。そこに家族という名の賑やかなノイズが混ざり合う。それは不協和音ではなく、むしろこの古い建物がずっと待ち望んでいた、新しい季節の葉が舞い降りたときのような心地よい響きだったのかもしれない。

家族の記憶に刻まれた、五つの断片

長すぎる浴衣の裾。七月の湿り気を帯びた綿の生地が、じっとりと肌に張り付く。子供たちに浴衣を着せてみたが、サイズが合わず、裾が床にずっと引きずっている。歩くたびに「シュル、シュル」と古い木材を撫でる乾いた音が廊下に響いた。それを最初に面白がったのは次男だった。彼はわざと大股に歩き、自分の裾を踏んで転びそうになりながら、「僕、お化けみたい!」と大笑いしていた。その不器用な足取りが、静まり返った館内に心地よいリズムを刻んでいた。

廊下の深い軋み。一歩踏み出すたびに、床下で古い木が「ギィ」と低く、けれど温かく鳴く。それは建物が私たちを歓迎している挨拶のようにも聞こえるし、あるいは過去にここを歩いた誰かの記憶が、足裏を通じて伝わってきたようにも感じられた。この音に真っ先に気づいたのは、普段は飽きっぽい長女だった。彼女はわざと音の鳴る場所を探して、忍び足で歩き始めた。「ここだけ音が違うよ」と耳を澄ませる彼女の横顔は、まるで森の中で秘密の地図を見つけた探検家のようだった。

とろみのある湯。貸切露天風呂付き客室で、湯番という専門の職人が調整してくれたお湯に身を浸すと、肌に吸い付くような柔らかさに驚いた。アルカリ単純泉特有の、指の間をすり抜けるぬめり。熱すぎず、冷たすぎず、ちょうどいい温度が、一日中歩き回って強張っていた肩の力をゆっくりと解いていく。それを一番に堪能したのは、心身ともに疲れ切っていた私だった。目を閉じると、自分の輪郭がじわりと溶けて、この建物の深い根っこと繋がっていくような感覚に包まれた。

神代杉の香り。食事の席で、千年以上眠っていたという神代杉の器に出会った。器から立ち上がる、深く、どこか懐かしい太古の森の匂い。そこに盛り付けられた小田原の海の幸や箱根の山の幸が、色彩豊かに並んでいる。誰が一番に気づいたか分からないけれど、家族全員が同時に「いい匂い」と声を上げた。地元の湧き水で炊き上げたご飯を口に運ぶと、大地の滋味がそのまま身体に染み込んでいく。贅沢という言葉よりも、もっと根源的な「満たされる」という感覚がそこにはあった。

夜空に咲いた火花。七夕の夜、窓の外にふいに広がった花火。真っ暗な空に、鮮やかな色彩が爆ぜる。その光が、浴衣姿で身を乗り出している子供たちの瞳に、小さな点となって映り込んでいた。次男が「あ、大きいのが来た!」と叫んだ瞬間、部屋の中は一気に歓声に包まれる。完璧な静寂を求める旅ではなかったけれど、こういう乱雑で、けれど純粋な喜びこそが、旅の本当の輪郭を作るのだと思う。

古木の記憶と子供たちの笑い声が、心に温かな灯をともす。

  • 飲泉が楽しめるので、お気に入りの空ボトルを忘れずに持っていくこと。
  • 廊下を歩くときは、あえてゆっくり歩いて、建物が鳴らす音に耳を澄ませてみてほしい。