← 回到 庫塔里溫泉湖畔旅館

パジャマのまま、夜の湖を眺めていた

パジャマのまま、夜の湖を眺めていた

瑠璃色の湖面に溶け出す、家族の輪郭

午前七時の空気は、まだしっとりと湿り、肌に張り付くような冷たさを帯びていた。窓の外に広がるくったり湖は、単なる深い青というよりは、誰かが濃いインクをこぼした後のような、曖昧で幻想的な境界線を描いている。長女が「あそこに白鳥がいる!」と歓声を上げ、窓にぴたりと張り付いたとき、その小さな指先がガラスに残した白い跡が、今の私たちの旅そのもののように見えた。大雪連峰の稜線が、淡い金色の光でゆっくりと輪郭を取り戻していく。目的地へ急ぐことよりも、道中でどのお菓子を食べるかで言い争う不器用な時間。けれどその喧騒こそが、地中で静かに割れる種のように、家族という形を新しく作り直していたのかもしれない。視界に飛び込んでくるのは、切り取られた絵画のような大自然の静寂と、それに反して賑やかな子供たちの笑い声。そのコントラストが、心地よい旅の始まりを告げていた。

静寂を塗り替える、裸足の鼓動と遠い祝祭

夜になると、ホテルの廊下は子供たちの独壇場になる。ひんやりとした床をパタパタと裸足で駆ける音が、静まり返った空間に波紋のように広がっていた。次男が「温泉はどこから湧いてくるの?」と不思議そうに問いかけたとき、私は適切な答えが見つからず、「地面の下で誰かがお湯を沸かしているのかもしれないね」と、物語を紡ぐように答えた。すると彼は、真剣な顔で床に耳を当て、地下の密やかな囁きを聞こうとしていた。そのとき、遠くからドスンという低い振動が伝わってきた。新得の町で上がった花火の音だ。耳に届く前に体に届くその震えは、心地よい緊張感を伴い、私たちは自然と手を繋ぎ合った。静寂とは音が無いことではなく、こうした心地よい響きに包まれている状態なのだと、この場所で気づかされた。廊下に響く笑い声と、遠い空で弾ける光の音。それらが重なり合い、家族の記憶に深く刻まれていく。

湯気に溶ける疲労と、丸太の温もり

湯宿くったり温泉レイク・インの浴槽には、大きな丸太がプカプカと浮かんでいた。次男がその丸太に必死にしがみつこうとして、派手にバランスを崩し、お湯を激しく跳ね上げたとき、私たちは一瞬だけ絶望し、それから同時に笑い転げた。お湯の温度は、熱すぎず冷たすぎず、ちょうどいいぬるま湯だ。肌に触れる水の重みが、一日中歩き回った足の疲れを、ゆっくりと溶かしていく。濡れたタイルのひんやりとした感触と、白い湯気でぼやけた視界。お湯に浸かって白くなった子供たちの肌は、触ると少しだけぬるぬるとした質感があった。それは、何か大切なものを守ろうとして包み込まれているような、絶対的な安心感だった。完璧に静かな入浴なんて無理だったけれど、その騒がしさこそが、私たちがここにいる確かな証明だった。湯船に浮かぶ丸太に身を任せ、見上げる天井の木の香りに包まれながら、心まで解きほぐされていくのを感じた。

喉を滑る出汁の記憶と、弾ける大地の甘み

朝食のテーブルに並んだ蕎麦を、長女が「大人の味だ」と得意げに言いながら、一生懸命にすすっていた。喉を通る蕎麦のつるりとした感触と、出汁の優しい香りが、まだ半分眠っている脳をゆっくりと覚醒させていく。地元の果物を口に含んだ瞬間、弾けるような酸味と、その後にやってくる濃厚な甘さが、口の中いっぱいに広がった。それは計算された贅沢ではなく、十勝の豊かな土と水がそのまま形になったような、正直で力強い味だった。次男が口の周りを果汁で真っ赤にしながら、「もう一回食べたい!」と無邪気に笑う。私たちは、高級なレストランで静かに食事をすることよりも、誰がどれだけ口を汚したかを競い合うような、こんな泥臭くも愛おしい朝をずっと欲していたのかもしれない。一口ごとに、この土地の生命力が体に染み渡り、旅の疲れが心地よい充足感へと変わっていく。

針葉樹の呼吸と、夏が残した残り香

ホテルを出て、少しだけ森の方へ歩いたとき、鼻をくすぐったのは、濡れた土と針葉樹が混ざり合った、深い緑の匂いだった。それは肺の奥まで浄化してくれるような、透明感のある香りだ。けれど、ふとした瞬間に、昨夜の盆踊りで嗅いだ、屋台のソースが焦げた香ばしい匂いや、人々の熱気が混じった夏の残り香が、記憶の底からふわりと舞い上がってきた。子供たちが「また来年も来ようね」と言ったとき、その声には迷いのない確信がこもっていた。私たちは、予定通りにいかない旅のストレスを、この森の深い呼吸でゆっくりと上書きしていった。欠けている部分があるからこそ、そこに新しい思い出が入り込む隙間ができる。この旅の不完全さこそが、最高の贈り物だったのだと思う。足元でカサリと鳴る枯れ葉の音と、遠くで鳴く鳥の声。すべてが調和したこの森の香りを、私たちは深く胸に刻み込んだ。

パジャマのまま、夜の湖の静寂に溶けていったあの時間を、永遠に抱きしめていたい。

  • 湖畔の散歩道は、あえて地図を見ずに歩くのがおすすめ。子供が見つけた「不思議な石」が最高のガイドになります。
  • 温泉の丸太に揺られるときは、ぜひ目を閉じて。遠くの山々の呼吸が聞こえてくるかもしれません。