誰が言い出したか、もう忘れたけれど
10月の酒田は、肺の奥まで凍てつかせるような鋭い冷気が漂っている。駅前という立地は、深夜のコンビニへの距離を絶妙に短くしていた。月のホテル / TSUKINO HOTEL の大浴場で、身体の芯までじっくりと温まり、肌がほんのりと上気して心地よい脱力感に包まれていたときだった。「ねえ、何か食べない?」という、誰の口から出たかも定かではない誘惑の囁き。それがトリガーとなり、私たちは吸い寄せられるように外へ飛び出した。
冷たい夜風に身をすくませながら駆け込んだコンビニで、地元の惣菜や、パッケージが派手すぎる期間限定のスイーツ、そして誰が飲むのかも分からない大容量の炭酸水を抱えて部屋に戻る。ビニール袋が歩くたびにガサガサと不協和音を奏で、それが夜の静寂に不自然に響き渡る。指先はかじかんで感覚が鈍っていたけれど、袋越しに伝わる揚げ物の熱だけが、今の私たちにとって唯一の確かな正解であり、小さな救いだった。
畳とコンビニ飯と、言い訳の数々
「ちょっと待って、なんでこのお団子、3パックも買ったの?」
モデレートツインの部屋に広がる、い草の清々しい香りと、繊細な組子細工の格子が月明かりに照らされている。ベッドの端に腰掛けたAが、呆れたようにプラスチックの容器を指差した。私は口いっぱいに唐揚げを詰め込んだまま、適当に肩をすくめる。
「だって、後で絶対足りなくなると思ったし。直感だよ」
「直感っていうか、ただの食い意地でしょ。誇張しすぎ」
Bがクスクス笑いながら、冷たい炭酸水をグラスに注ぐ。氷がカランとぶつかる硬質な音が、和モダンな空間に心地よく響いた。私たちは、もともと完璧な旅程を組んでいたはずだった。明日の朝は早起きして鳥海山の紅葉を効率よく巡り、正解のような写真を撮る。けれど今、私たちは畳の上にコンビニ飯を散らかし、計画という名の鎖を一つずつ丁寧に解き放っていた。
「っていうかさ、明日の早起き、無理じゃない? 誰が起きられると思ってんの」
「それな。ぶっちゃけ、今ここでこのお団子を完食することの方が、よっぽど重要なミッションだと思う」
「賛成。私たちは今、食の探求という名の冒険をしてるわけだから」
そんなくだらない会話をしながら、私たちは互いの不手際や、旅先での小さな失敗を笑い合った。誰かが地図を読み間違えて迷い込んだ路地の話や、駅前で買いすぎたお土産の話。普段なら「次は気をつけよう」で終わる会話が、深夜2時のこの密室では、最高のエンターテインメントに変わる。外には静かに鳥海山が鎮座しているはずだが、今の私たちの世界は、この四角い部屋に漂う揚げ物の匂いと、親密な笑い声だけの半径2メートルに凝縮されていた。
胃袋が満たされた後の、心地よい空白
最後の一口のお団子を飲み込んだとき、ふっと会話が途切れた。それは気まずい沈黙ではなく、胃袋と心が同時に満たされたことで訪れた、贅沢な空白だ。プラスチックの容器を片付け、飲み干したペットボトルがテーブルの上で小さく乾いた音を立てる。
ふと窓の外を仰ぐと、雲の切れ間から銀色の月が顔を出していた。月のホテル / TSUKINO HOTEL という名にふさわしい、静謐で、けれど確かな光。その光が、部屋の隅にある濃い影をゆっくりと押し広げていく。10月の夜のしっとりとした湿度が、バラバラな個性の私たちを、ひとつの心地よい塊として緩く繋ぎ止めていた。
計画通りにいかなかったこと。早起きに失敗しそうなこと。それらすべてが、実はこの旅で一番贅沢な時間だったのではないか。そう思うと、明日、目覚まし時計を止めて二度寝することさえ、一つの正解に思えてくる。私たちはゆっくりとベッドに潜り込み、シーツの冷たさと、身体に残ったお風呂の余熱の間で、意識が溶けていくのを感じていた。
遠くで、夜行バスが駅に滑り込む低い排気音が、心地よい眠りを誘った。
- コンビニで地元の銘菓を買い込み、どれが一番美味しいか深夜まで議論するのがおすすめ。
- 深夜の大浴場で、明日の予定をすべて忘れて、ただ湯気に包まれる時間を過ごしてほしい。