← 回到 La Vista 函館灣 ANNEX

ページをめくる音だけが、部屋に溶けていた

「ここ、なんだか落ち着くね」

「ここ、なんだか落ち着くね」と、君が小さく呟いた。私は厚手のカーテンの端を指でなぞり、そのざらりとした質感に意識を向けながら、「多分、新しすぎないからかもしれない」と答える。私たちはまだ、どちらから先に手を繋ぐべきか、あるいは繋がないままでいるべきか、その正解を探している最中だった。肩と肩のわずかな隙間に、冷たい秋の空気が入り込む。けれど、その冷たさがあるからこそ、隣にいる君の体温が、確かな輪郭を持って伝わってくる気がした。

重なり合う時間と、指先に残る温度

函館駅からホテルまで歩く道すがら、十月の風が冷たく頬を撫でた。潮の香りと、どこか乾いた土の匂いが混じり合い、秋の訪れを告げている。足元の石畳を叩く靴音が、心地よいリズムで重なり、また離れていく。ラビスタ函館ベイANNEXの扉を開けた瞬間、鼻をくすぐったのは、丁寧に手入れされた古い木材の芳香と、かすかに混じる清潔なリネンの香りだった。ロビーに置かれたクラシカルな家具たちは、誰かが長い時間をかけて使い込んできたような、心地よい重みを湛えている。それはまるで、丁寧に重ねられた厚手の生地のような質感で、そこに身を委ねると、旅の高揚感と同時に抱えていた緊張感までもが、その層の中に静かに吸収されていくように感じられた。

特別室の窓から見える津軽海峡は、吸い込まれるような深い藍色をしていた。その青は単なる色ではなく、ある種の静寂として部屋の中に流れ込んでくる。ベッドに深く腰を下ろすと、リネンのひんやりとした感触が肌に触れ、それからすぐに体温で温まっていく。私たちはどちらからともなく、持ってきた本を開いた。静まり返った部屋の中で、ページをめくる乾いた音だけが、不規則な拍子で響いている。ふと、君が本から目を離して、私の顔を覗き込んだ。そのとき、私は読みかけのページを閉じようとして、指先を少し滑らせ、本を床に落としてしまった。「あ」という短い声が漏れ、私たちは同時に視線を落とし、それから小さく笑い合った。完璧に振る舞おうとしていたはずなのに、そんな小さな綻びがあることで、ようやく呼吸が楽になった気がした。

天然温泉に浸かったとき、冷え切った指先からじわりと熱が染み込んでいく感覚が心地よかった。お湯の温度が、ちょうどいい。肌がわずかに赤らみ、心拍がゆっくりと落ち着いていく。湯上がりにいただいた地元の秋の味覚、イクラの濃厚な塩気と、それを包む炊き立てのご飯の甘み。口の中で弾ける感覚が、今の私たちの関係に似ていると思った。不確かで、けれど確かな充足感がある。和洋折衷の設えが醸し出す、どこか懐かしくも贅沢な空間のように、私たちもまた、お互いの異なるリズムを少しずつ重ね合わせ、新しい心地よさを形作っているのかもしれない。誰かに定義された「正解」ではなく、私たちだけのちょうどいい温度を、この街の静寂の中で、ゆっくりと探していた。

窓の外では、夜の海が静かに凪いでいた。

  • 夜の静まり返った時間に、二人でゆっくりとお湯に浸かってほしい。
  • ラウンジの隅で、お互いの好きな本を黙って読み合う時間を過ごしてほしい。