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指先に残った、桜色の冷たさ

指先に残った、桜色の冷たさ

ウェルカムドリンクのグラスが、指先に張り付くほど冷たかった。チェックインを待つベルベットのソファに深く腰掛け、誰が一番最初に部屋の鍵を失くすかという不毛な賭けに興じていたけれど、結局誰も失くさなかった。期待外れというか、私たちの不注意さへの信頼を裏切られた気分だ。「もしかして、今回の旅は意外とスムーズに進んじゃうかもね」と誰かが苦笑いした。


朝食バイキングでは、炊きたての米から立ち上がる真っ白な湯気が、視界をふんわりと遮った。地元の濃厚な卵料理を口に運んだ瞬間、舌の上に広がるコクが、まだ半分眠っている脳をゆっくりと揺り起こしてくれる。美味しいものは、理屈抜きに人を素直にさせる。隣で「これ、おかわりいけるわ」と呟いた友人の声が、心地よいリズムとなって耳に届いた。
「鋼の夢」という名のマットレスに体を沈めたとき、あまりの心地よさに全員が絶句した。誰が一番先に寝落ちするか競争しようという話になったけれど、5分後には全員が深い眠りの底に沈んでいた。誇張ではなく、文字通り「夢」に吸い込まれた感覚。目が覚めたとき、ここがどこだったか一瞬分からなくなったのは、きっとこのベッドの魔力によるものだ。
ドライヤーが吐き出す強くて温かい風が、洗面所の狭い空間を熱気で満たしていた。髪を乾かす時間が異様に長い友人に「いつまでやってるのよ」と軽口を叩いたけれど、鏡越しに目が合ったとき、お互いの瞳に潜む心地よい疲労感に気づいた。あえて急かさず、ただ待つ。ヘアオイルの甘い香りが、密室の空気を柔らかく塗り替えていく。
窓の外に広がる上州の山々が、4月特有の淡いブルーグレーに染まっていた。遠くの稜線が空に溶け込む様子を眺めていると、心の中のさざ波がゆっくりと凪いでいく。何かを解決しようと焦るのではなく、ただそこにある景色に自分を合わせていく。そんな静寂に身を委ねる時間が、今の私たちには何よりも必要だった。
足裏に触れる琉球畳の、しっとりと吸い付くような質感。ホテル 松本楼の100平方メートルもあるスイートルームは、私たちのとりとめもない会話をすべて吸収してくれるほどに広かった。カエデの木を使った内装から漂う、懐かしく落ち着いた木の香りが鼻をくすぐる。広い空間に身を置くと、普段は隠している孤独のようなものが、心地よい余白となって形を変えて現れる気がした。
伊香保の石段街まで歩いたとき、不意に強い風が吹き抜け、視界が桜の花びらで真っ白に埋め尽くされた。誰かが「うわっ」と声を上げたけれど、誰も逃げ出そうとはしなかった。風が舞い、花びらがゆっくりと地面に降り積もるまでの、あのわずかなラグ。私たちの関係も、そんなふうに少しだけ遅れて、でも確実に伝わる距離感でいいなと思った。
展望露天風呂の黄金色の湯に肩まで浸かると、皮膚の境界線が曖昧になり、自分が湯の一部になったような感覚に陥った。お湯の温度が芯まで心地よく、体の中に溜まっていた強張りが、ゆっくりとほどけていく。明日になればまたそれぞれの日常に戻るけれど、この温もりだけは記憶の底に沈殿して、時々思い出して笑い合えるはずだ。

指先に触れた、春の風の温度だけを連れて帰ろう。

  • 石段街を歩くなら、あえて地図を見ずに迷い込むのが正解。ふと見つけた路地が一番いい。
  • ホテル 松本楼のマットレスは本当に危険。チェックアウトの時間まで、布団から出られなくなる覚悟をして。