「ねえ、行かなくてもいいかな」
「ねえ、行かなくてもいいかな」
君が小さく呟いた。浴衣の硬い生地が、もぞもぞと動くたびに擦れる乾いた音が、静まり返った部屋に響く。
「花火、見たいって言ったのは僕だけど」
僕は答えを濁し、エアコンが発する低いハミングに耳を澄ませた。窓の外では、夜の黒部がじっとりとした熱を帯び、濃い藍色の闇に溶けている。私たちはどちらも、この心地よい静寂を破る勇気を持っていなかった。けれど同時に、このまま二人きりでいたいという密かな合意に達していたのかもしれない。
湿った空気が、二人の境界線を曖昧にする
7月の空気は、皮膚にまとわりつくような重さがある。けれど、大江戸温泉物語Premium 伊香保の露天風呂付き部屋に足を踏み入れた瞬間、その重さは心地よい包容力へと変わった。裸足で踏みしめたフローリングのひんやりとした温度が、火照った足裏からゆっくりと体温を奪い、意識を今この瞬間に繋ぎ止める。間接照明が落とす柔らかな琥珀色の光が、部屋の隅々にまで静かに浸透し、私たちの輪郭を優しくぼかしていた。
部屋に備え付けられた露天風呂に身を沈めると、お湯の重みが、今日一日中ずっと張り詰めていた肩の力をじわじわと溶かしていく。立ち上る白い湯気の向こうで、夜風が木々を揺らすかすかな音が聞こえる。隣に座る君の肩が、ほんの少しだけ触れた。その数センチの距離に、今の私たちのすべてが詰まっているような気がして、僕はわざとゆっくりと深い息を吐いた。硫黄の香りがかすかに混じるお湯の温度が、ちょうどいい。誰にも邪魔されないこの聖域で、私たちはただ、同じリズムで呼吸をしていた。それはまるで、一つの生き物になったかのような錯覚さえ覚える。
夕食のバイキングで堪能したブラックカレーの味が、今でも舌の奥に濃厚な余韻として残っている。深い黒色をしたそのソースは、驚くほどコクがあり、口にした瞬間に体の中に熱い灯がともる感覚があった。実は、私はお洒落に刺身を盛り付けようと格闘していたけれど、醤油をかけようとした瞬間に天ぷらが皿の外へダイブした。君がそれを、小さく笑いながら拾い上げてくれたとき、不器用な自分さえも肯定されたような気がして、なんだか急に、この旅に来てよかったと思った。笑い声が、心地よいスパイスのように夜に溶けていく。
深夜3時。ホテルの廊下を歩く誰かの足音が、遠くで吸い込まれていく。部屋に戻れば、そこには完璧な静寂がある。大きなベッドに潜り込み、洗い立てのリネンの冷たさと、君の体温が混ざり合う。私たちは、お互いの正解をまだ知らない。どうすればもっとうまく伝えられるのか、どうすればこの心地よい緊張感を壊さずにいられるのか。答えは出ないかもしれない。けれど、この不確かさこそが、今の私たちにとって一番贅沢な時間なのだ。水面に広がる波紋のように、静かに、お互いの存在を浸透させていく。空いたスペースに、ただ静かに、お互いの存在を置いておく。それだけで十分だった。
夜風に揺れる浴衣の裾が、白い線を描いて闇に消えていった。
- 次にここに来るときは、あえて計画を全部捨てて、その時の気分だけで動いてみない?
- 露天風呂で、何も話さずにただ夜空を眺める時間を、もう少しだけ長く取ろうね。