午前11時、庭の原木ベンチに落ちる冷たい光
冷たい。指先が触れた瞬間に跳ね返されるような、硬く無機質な木の質感。甲斐リゾートホテルの手入れされた庭に置かれた原木ベンチは、3月の鋭い風をそのまま吸い込んで、凍てついたままそこにあった。隣に座る君との間には、ちょうど手のひら二枚分くらいの空白がある。手を伸ばせばすぐに触れられる距離なのに、なぜかそのわずかな隙間が、今の私たちには心地いい。私たちは、今年の桜の開花予想について、とりとめもなく話していた。「もうすぐだって」と君が呟く。けれど、目の前の景色はまだ冬の重い外套を脱ぎ捨てていない。湿った土の匂いと、かすかに混じる早春の冷ややかな香りが鼻腔をくすぐる。
この、予報と現実の間にある「タイムラグ」のような時間が、今の私たちに似ている気がした。もどかしくて、けれど、その空白を待つこと自体が目的になっているような、奇妙な停滞感。私たちの旅程表は、ほぼ白紙だった。誰かが「自由な旅」と呼ぶなら、私はそれを「準備不足という名の怠慢」と呼びたい。けれど、その怠慢のおかげで、私たちは予定に追われず、ただこの冷たいベンチで、どちらが先に寒さに耐えられなくなるかという、どうでもいい競争に時間を費やすことができた。遠くに見えるログハウスの茶色い壁が、淡い水色の空に溶け込んでいる。視界の端で、君が小さく肩をすくめた。その小さな震えに、私の心拍がわずかに同期する。正解なんてない。ただ、この不確かな温度感のままでいい。そう思えたのは、きっとこの場所の空気が、私たちに急かすことを忘れていたからかもしれない。まるで、春を待つ葡萄の蔓が、静かに地中で力を蓄えているときのような、密やかな期待感に包まれていた。
午前6時、青い静寂と富士山の輪郭
静か。耳の奥で、自分の鼓動が低周波のノイズのように響いている。まだ誰も起きていない時間、和洋室の重いカーテンをゆっくりと開けると、そこには剥き出しの富士山が鎮座していた。3月の早朝の青は、刺すように鋭く、世界を塗りつぶしている。ガラス越しに伝わる冷気と、部屋の中の密やかな温もりの境界線。私たちは、どちらからともなく、源泉かけ流しの湯に身を沈めた。お湯の温度が、ちょうどよかった。熱すぎず、冷たすぎず、皮膚の境界線が曖昧になり、自分が水の一部になっていくような感覚。水面に浮かぶ小さな気泡が、パチパチと静かに弾ける音が、静寂をより深く際立たせる。言葉を交わす必要はない。今の私たちにとって、沈黙は欠落ではなく、二人を優しく包み込むための器のようなものだった。
昨夜のバイキングでの喧騒が、遠い記憶のように思い出される。和洋中が入り混じった色鮮やかな料理の列。どれを食べるか迷って、結局二人で同じ地元の果物を皿に盛り付けた。甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がったとき、君が「美味しいね」と短く笑った。その一瞬の同期。そんな小さな断片を集めて、私たちはゆっくりと、お互いのリズムを合わせていく。朝食のバイキングで、香ばしいコーヒーの香りが漂い始める頃、私たちはようやく、昨日よりも少しだけ近い距離で歩き出した。ホテルを出て、桔梗屋の工場まで歩く5分間の道のり。歩道に落ちている小さな枯れ葉の乾いた音や、かすかに漂うお菓子の甘い香り。そんな、誰も写真に撮らないような細部にだけ、私たちの本当の旅が刻まれていた気がする。不器用なままで、それでも一緒に歩いている。その事実だけで、十分すぎるほど贅沢な時間だった。
濡れた髪から滴る水滴が、白いシーツの上に小さな円を描いていた。