← 回到 石和常磐飯店

浴衣の裾を引いて歩いた夜

浴衣の裾を引いて歩いた夜

指先に触れる浴衣の綿が、少しだけ硬い。下の子が小さな手で一生懸命に帯を締めようとして、何度も結び目がほどけては、またやり直している。「見てて、自分でできるから!」という誇らしげな声。結局は大人が手伝うことになるけれど、本人は「自分でできた」と言い張る。その小さな嘘が、旅の始まりに似ている気がした。石和常磐ホテルのロビーに足を踏み入れると、どこか懐かしい木の香りが鼻をくすぐり、天井の高い空間に家族の笑い声が心地よく吸い込まれていく。不揃いな歩幅で歩く廊下は、心地よいリズムを刻んでいた。


お湯に身体を沈めると、肌の表面に薄い膜が張ったような、滑らかな感覚に包まれる。美肌湯として知られるアルカリ性の温泉が、指先からゆっくりと身体の強張りを溶かしていく。貸切風呂の静寂の中で、ただお湯が溢れる音だけが耳に届く。上の子が水面をパシャリと叩いて、小さな波紋を広げている。その波が私の肩に触れるたび、母親という日々の役割を脱ぎ捨てて、ただの「個」に戻っていくのがわかる。肌が滑らかになることよりも、心の角が丸くなっていく感覚の方が、ずっと心地よかった。
廊下を歩くたびに、小さく、速い足音が響く。パタパタという、子供特有の不規則で軽やかなリズム。それがホテルの静かな空間に溶け込み、ある種の音楽のように聞こえてくる。遠くで祭りの囃子が聞こえ始め、期待と不安が混ざり合ったような高揚感が廊下を通り抜けていく。私たちはその音に導かれるように外へ出た。夜風が火照った頬に心地よく触れ、湿った空気の中に、この土地ならではの桃の甘い香りがかすかに混じっていた。
口の中でとろける甲州牛の脂が、濃厚な甘さを連れてくる。箸で持っただけで崩れそうなほどの柔らかさに、子供たちは目を丸くして、夢中で頬張っていた。地元の食材が持つ力強い味が、胃のあたりからじんわりと身体を温めていく。食後に運ばれてきた瑞々しい桃を一口かじると、冷たい果汁が喉を通り、夏の暑さが一瞬だけ遠のいた。美味しいものを共有するということは、言葉を交わさなくても「今、ここに一緒にいる」ことを深く確認し合う作業なのかもしれない。
夜空に大輪の花が開いた瞬間、世界が真っ白に染まる。けれど、音はまだ届かない。光が消えてから、少し遅れて、身体を震わせるような重低音がやってくる。そのわずかなラグに、私たちは同時に息を呑んだ。石和常磐ホテルの窓から見上げる空は、吸い込まれるほど深く、花火の残像が網膜に焼き付いている。光と音のズレ。その空白の時間に、私たちはただ黙って、隣にいる家族の体温を静かに感じていた。
短冊に書かれた、拙い文字。下の子が願ったのは「恐竜になりたい」という、あまりに切実で、あまりに現実味のない願いだった。色とりどりの紙が風に揺れるたび、カサカサと乾いた音が心地よく響く。その音を聞きながら、私は自分の願いを考えたけれど、結局何も書かずに空を眺めていた。今のこの、少しだけ混乱していて、けれど限りなく温かい時間が、どうかずっと続いてくれればいい。そう思うだけで、十分だった。
部屋に戻り、和室ベッドの心地よい柔らかさに身を任せて横になる。エアコンの冷気が、火照った肌を優しく冷やしていく。子供たちはいつの間にか、お互いの肩に頭を乗せて、深い眠りに落ちていた。畳のい草の匂いと、かすかに残る温泉の香りが混ざり合い、部屋全体を優しい静寂が包み込んでいる。完璧なスケジュール通りにはいかなかったけれど、その不器用な隙間にこそ、本当の旅の記憶が入り込む場所があるのだと思う。

夜の静寂が、心地よい重さで身体に降りてくる。

  • 石和温泉駅から徒歩3分という近さを活かし、早めにチェックインして浴衣で街を散策するのがおすすめです。
  • お子様と一緒に地元のフルーツ狩りを体験してみてください。泥だらけの手で食べる果実の味は、一生の記憶になります。